noteを書き始めたのは『情報環世界』の出版がきっかけだった。
100年前に生物学者のユクスキュルは、あらゆる生き物は同じ世界を生きているようでいて、それぞれのもつ知覚を通して、それぞれ違ったその生き物ならではの世界を生きているとしてそれを「環世界(Umwelt)」と名付けたが、今人間同士の間でも、フィルターバブルやエコーチェンバーと言われるように、同じ世界を見ているようでみんな全然違う世界を見ていて、分断が深まっている。それを「情報環世界」と名付けて議論を重ねてできた本だ。
https://note.com/ogatahisato/n/n3f609d1bd1d6
この本の中で、「“わかる”と“つくる”の情報環世界」という章を担当したのだが、そもそも「わかるとつくる」というテーマに辿り着く前に、まず「わかる」ってなんだろうということに興味を持ったきっかけがある。それが2015年に博報堂とアルスエレクトロニカとの共創プロジェクトとして行われたワークショップだ。2030年の未来シナリオを考えるワークショップで、もうかなり記憶が曖昧だが、僕らのチームは「誰もがもう一人の分身AIを持っている世界でのある家族の1日」のようなシナリオに行き着いたような気がする。2024年の今考えると結構リアリティあるシナリオだったと思う。
そのワークショップでは事前に未来について何か考えてくるみたいな宿題があって、次の文章を書いていった。(当時のメールを探して見つけた。)
「わかる」の未来
いまや、ネットワークとコンピュータのおかげで僕らは世の中の複雑なものごとを複雑なまま扱うことができるようになった。
天気予報会社のスーパーコンピュータの計算結果に従っておでんの仕入れ量を決めるコンビニ。ソーシャルネットワークの発言を元にした得票予測と実際の投票結果がほぼ一致する選挙。
人工知能やビッグデータが導き出す答えは確かに正しい。でも、それがどうして正しいのか、もはや誰にもわからない。
人間が無意識や勘や直感と呼んでいたことが計算できるという意味では「わからなかったことがわかる」とも言えるし、コンピュータが導きだす答えが人間の理解を超えるという意味では「わかっていたことがわからなくなる」とも言えるのかもしれない。
多くの人にとっては「なぜかわからないけど正しい答え」も案外すんなり受け入れられるのかもしれないし、すべての人が難しい社会課題やグローバルな問題をわかっている必要はほんとうはないのかもしれない。
それでも「わかりたい」と思うのはなぜだろう。「きづいた」ときや「わかった」ときにうれしくなるのはなぜだろう。それを「伝えたい」と思うのはなぜだろう。
最後の方の文章はちょっと迷いながら書いたのを覚えている。自分自身は何かが「わかる」ことは面白いと感じるけど、そもそも人間何をどこまで「わかる」必要があるのか。みんながわかりたいわけではないんじゃないか。
この時書いたことはもう「わかるの未来」ではなく「わかるの今」という感じだが、この問いは変わらず自分の中にある。
つづく。