• それぞれのリアル

    いろんな立場のいろんな人の大統領選振り返りを見聞きして、どれもなるほどなーと勉強になった。

    どっちを支持してたかもさることながら、マスメディア、ネットメディア、個人の発信、いろんな世代、日本、アメリカ、ヨーロッパ、BRICS、GS、見え方もいろいろ。どんな見方も馬鹿にしてはいけないリアル。

    世界がそんなそれぞれのリアルが干渉するリアリズムへ向かうとして、リベラルな視点が必要ない訳じゃないし、むしろ難しくなるからこそ、言ってるだけじゃなくて目の前の自分にできることやりたいことと繋げていかないといけないよなあと。

    コンヴィヴィアル(共に生きる)、むずいなー。

  • できることをやる

    わたしたちはしばしば、
    できることをできないと過小評価しがちで、
    できないことをできると過大評価しがち。

    本当にできないのか?
    本当にできるのか?
    自分にできることは何か?

    ちょうど自分にできるギリギリをやる。

    「できることをやる」って言うと当たり前のようだけど、ポイントは「できることだけやる」でも「できること全部やる」でもないところだろうな。時間は有限で、近いところから全部やろうとしたらギリギリまでいけないし、自分が影響を与えられない遠すぎることを考えたり言ったりしてるだけでも何も起きない。

    ちょうど自分にできるギリギリを見極めて、やる。

    今週の学び。

  • 稲刈り

    息子が米つくりたいと言い出して今年本格的に取り組むことになった米づくり。地域の人たちや周りの仲間にたくさん助けてもらって、なんとか稲刈りを終えることができた。

    https://www.instagram.com/p/DAlctm7yMiz/

    もともと先週稲刈りの予定だったのだが、当日朝行ってみると田んぼの中の水が全然引いておらず、奥の水溜まりでは稲が倒れていてとても稲刈り機が入れる状況ではなかった。(稲が倒れるのは、よく育って背が高く稲穂が重いのに加えて、水が引かず根元の土が緩いから。穂が実って先端が重くなると共に絶妙に土が渇くようにタイミングよく水を抜いていく必要があるようだ。)協力しながら同じようにやってきた両隣りの田んぼはしっかり乾いていたので、やはり今年新たに始めた田んぼでいろいろやってみないとわからないことがある。

    結局その日は予定を変更して両隣りの稲刈りを先にみんなでやり、次の日は「田んぼの水全部抜く」作戦。周りの方々も助けに来てくれて、長年培われた知恵を教えてもらい、田んぼの中に溝を掘ったり、畔を一部崩して田んぼの中の水を外に流したり。

    自分でも何か使える道具はないかと、以前畑を借りていた時に使っていた簡易ポンプとポータブル電源を持っていったのだが、これも思いのほか役に立った。先人の知恵とテクノロジーの組み合わせで徐々に水が引いていく。

    翌日から時間があれば黙々と倒れてしまった稲をぬかるみから救出してひたすら手刈り。根元だけでも立っていれば稲刈り機が刈ってくれるが完全に倒れてしまうと手で刈ることになる。手伝いに来てくれた皆さんへは感謝しかない。自然相手では自分がいつ助けてもらうことになるかわからない。普段から助け合うことの大事さを身をもって知る。

    同時に、手植えや手刈りをしてみると田植え機や稲刈り機というテクノロジーの凄さも感じる。田植え機は苗箱から程よく苗を摘んで次々植えていくし、稲刈り機は刈ってくれるだけでなく縄で縛ってくれる。ほんとによく出来ている。

    ちなみに、朝1人で田んぼにいるとどこからともなくアオサギがやってきて、気づくと虫やどじょうをついばんでいる。こちらに気づいても慌てず騒がず悠々としていて、まさに「君たちはどう生きるか」の世界だ。

    そんなこんなで土も固まってきてようやくの稲刈り。この日もいろんな方に助けてもらいながら、なんとか稲刈り完了。息子も振替休日で手伝い頑張った。あとは脱穀まで台風や大雨が来ないことを祈るのみ。

    植えた時はあんなに頼りなげだった数本の苗からこんなに立派な稲が育ち、米として食べられるという奇跡。現代は衣食住はもう満たされて、、という言い方をたまに見かけるが、食が満たされているのは決して当たり前ではなく、こんな奇跡に支えられていることを改めて実感する。

  • 今より悪くならない未来

    この日は、八重洲ミッドタウンで行われた「エッセンスフォーラム2024 – 研究知の社会実装に向けて – 」というイベントに参加した。

    昨年に続く日本最大規模の研究者ビジネスカンファレンスとのことで、大学の研究者だけでなく、いわゆるディープテック系スタートアップや大企業の研究所の方なども多く参加されていたと思う。

    ウェブを見ると、今回のテーマは「研究知の社会実装(Knowledge to Knowledge Capital)」で、「研究知との出会いが社会を前進させる重要なリソースになり得ることを改めて確認し、その可能性と課題を共に深めるためのテーマ」とあった。

    基調講演ではMIT Media Lab石井裕先生の変わらぬパッション溢れるお話を聴き、その後のセッションでは、たまたま隣になった方と話したら自分の本を読んで頂いてたり、また別のセッションでは、よそよそしく話しながらなんかどこかで会ったことあるなと思ったら大学時代のクラスメイトだったり、偶然の出会いも面白かった。

    さて、聴講したセッションの一つで、会場から「10年後にとんな社会になっていたらいいと思うか?」という質問があった。「好奇心駆動型社会」「脱地球社会」「氾生命社会」「当事者化社会」「自然社会」いろんな視点が挙げられてどれも興味深いものだったのだが、実は先日自分が登壇したイベントでも同じような質問をされて、答えに悩んでしまったのだが、たしかその時は「今より悪くならない社会」みたいな回答をした気がする。

    個人的には、どちらかといえば(というかかなり)楽観的で、こうしたイベントも未来に対して前向きな気持ちで参加したいとは思うものの、この日は特に朝から、能登の豪雨被害の状況が次々と届いたり、中東ももう後戻りできなそうなところまでエスカレーションしていたり、目の前の現実に、本当にこれからも「社会は前進する」のだろうかと思ってしまった。

    以前また別のイベントに登壇した日がちょうどロシアがウクライナに侵攻した日で、この日もイスラエルがヒズボラを空爆した日で、そんなニュースを気にしながら、今日が悪い意味での歴史の転換点にならないといいなと思いながら話を聞いていた。(ちなみに、こういうイベントでそうした話題に必ず触れるべきと言いたい訳ではない。が、自分が聞いた議論の中では、石井先生は、世界が分断に向かう中で「わたしたち(We)」という主語を安易に使うべきではないという趣旨の発言の中でウクライナやガザの話に触れていた。)

    政治にせよ、経済にせよ、研究にせよ、何かの「正しさ」には「前提」がある。歴史を見ればそうした「前提」が覆り、「正しさ」が180度変わるようなことは何度も起きてきた。今もまたその「前提」が大きく変わろうとしている時である可能性を頭の片隅に置きながら、それでもあくまで出来るだけポジティブに楽観的に、誰もがよく生きられる未来になるようなことが少しでも出来たらと思う。

  • 奥能登豪雨

    夏に能登に行った人のお土産の一つに地元の北國新聞があって、数ヶ月経っても連日一面は地震関連のニュースで埋められていて、まだ何も終わってない(というかむしろ始まってない)という感じがした。かと言って自分も結局まだ何か出来たかというと出来ずにいるのだが、そんなまだまだ復興復旧もままならないところに今回の豪雨。

    今朝の北國新聞の紙面がウェブで無料公開されていて、連日の地震関連の紙面がこれで上書きされたのかと思うと、ほんとになんと言ったらいいかわからない。

    東日本大震災の時はSNSがとても役に立った記憶があるが、今はかなり意識して見に行かないと全然状況が流れてこない。ブラックボックス化したアルゴリズムによってタイムラインはもはや機能していないようにも見えるし、そもそも今度ばかりは被災した方々も心が折れて声を上げる気力も出ないような状況なのではないかと心配になる。

    そんな中でも様子を伝えてくれる人やコミュニティやメディアを、フォローしたりシェアしたり、せめてほんのちょっとでも思いを寄せていることが伝わるようにしたいなと思う。

  • AIを使って難しい本を読む方法

    noteを更新。

    AIを使って難しい本を読む方法〜あるいは今さら聞けないマルクス主義(の魅力と危うさ)

    最近意識して昔の本を読んでいるという話。でも難し過ぎるのでAIを活用しているという話。

    それにしても何事も継続するのが苦手で、文章も、書くモードと全く書く気にならないモードの波があるのだが、なぜか今は書くモード。

    ブログは日々気軽に、少し長めの文章はnoteに書いてみることにしてみようと思う。

  • ムーミンとコンヴィヴィアル

    今日は小海町高原美術館で開催中の「ム―ミンの食卓とコンヴィヴィアル展」の学芸員ツアーに参加した。

    実は『コンヴィヴィアル・テクノロジー』発売後すぐ、飯能のムーミンバレーパークで「コンヴィヴィアル」と題された展覧会が開催されると知って驚いたのを覚えている。

    こんな聞き慣れない言葉をタイトルにして大丈夫だったかなという不安もあったので、あのムーミンが展覧会のタイトルに!と勇気づけられ、これは見に行かねばと思っていたものの、結局会期を逃し、その後も全国を巡回しているのは知りつつ遠くてなかなか行けずにいたのだが、なんとその最後の巡回展が(うちから車で1時間もかからない)小海町の高原美術館で開催されることになったのだ。

    さらに、拙著を読んでいただいた「ほっちのロッヂ」の藤岡聡子さんから誘ってもらって、移住後に長野で知り合った人たちも一緒にタイミングよく学芸員ツアーに参加することができた。

    展覧会は、決してインタラクティブな仕掛けや大きな作品があるようなものではないが、トーベ・ヤンソンによる原画はやはり見応えがあった。(巡回展の中でも一番原画の点数が多いらしい。)

    さてさて、この展覧会では「コンヴィヴィアル」という言葉をどんな風に捉えているのだろう。

    学芸員さんの説明によると、それを象徴するのが展覧会のキービジュアルの一つにもなっている「空飛ぶ食卓」の挿絵だという。

    この挿絵は、ムーミンがその名を世界に知られるきっかけとなったムーミンシリーズ第3作「たのしいムーミン一家」の、こんなラストシーンを描いたものだという。

    前作の旅の途中でムーミンと出会って親友になり、ムーミン谷で暮らしていたスナフキンだったが、冬が来る前に旅立っていってしまう。

    スナフキンが旅立った後、ムーミンが残った仲間たちと食卓を囲むラストシーンで、願い事を一つ叶えてもらえることになったムーミンは、

    この楽しい食卓をスナフキンのところへ運んであげてほしい、と願うー。

    「コンヴィヴィアル」の「共に生きる」という意味には、今その場にいる人たちと「共に生きる」というだけでなく、旅立ってそこにいない人とも「共に生きる」という意味も含まれるのだ。

    偶然にも、拙著の冒頭で「コンヴィヴィアル」という言葉の意味について引用した山本哲士氏の著書の一節は次のようなものだった。

    たとえば、ラテンアメリカのある山村に、異質な人(他所からきた宣教師や神父)が訪れ、バナキュラーな暮らしをしている村人たちに役立つ「いい話」をしたとする、それがいままでなかった異質な話であるのに、村人たちの暮らしに役立つようなものであり、和気藹々とその時間がすごされたとき、「今日はとてもコンビビアルだった」という言い方をされる。他律的なものが、自律的なものに良い方向へ働いたということだ。現在の日常でも、それは使われている。

    スペイン語では、現在でも日常語として生きている言葉だ。メキシコシティにある大きな公園、チャプルテペック公園は、「コンビビアル」と銘されている。子どもと大人たちが、楽しく過ごす場所である。他所の異質なもの、そしてある限られた時間、そして相反しているものが共存しえたとき、これがコンビビアルなものの要素である。

    (山本哲士『イバン・イリイチ』より)

    スナフキンもまさに他所からきた旅人であり、限られた時間を共にしてまた去っていく。人は常に出会いと旅立ちを繰り返しながら、それらをひっくるめて出会った人たちと共に生きていく。「コンヴィヴィアル」にはそんなニュアンスが含まれているのだと思う。

    そして、それには死という旅立ちも含まれるだろう。わたしたちはもう会えない人たちとも「共に生きる」のだ。

    そういえば、イリイチも過ごしたメキシコの「死者の日」は、とてもカラフルで賑やかなコンヴィヴィアルな感じがして…と、見終わったあとも話は尽きなかったが、この続きはきっと聡子さんがどこかでしてくれると期待して、この辺にしておこう。

  • 大きなチャレンジ、小さなトライ

    この連休は、山口情報芸術センター(YCAM)で行われた、フォーラム「Art for Well-being-表現とケアとテクノロジーのこれから」に登壇した。

    今年はこれまでの取り組みを広げていくのがテーマということで、たんぽぽの家のある奈良を飛び出し、メディアアートの拠点であるYCAMで体験展示とフォーラム、ドキュメンタリー映画の上映が行われた。

    ちなみに一緒に登壇したYCAMでアーティスティック・ディレクターをつとめる会田大也くんはIAMASの同期でもあり、2008年に彼が誘ってくれた「ミニマムインターフェイス展」でON THE FLYが生まれたこともあり、この場所で話ができるのは個人的にも感慨深いものがある。

    2年前から関わってきたこのArt for Wellbeingプロジェクトについては、これまでにもこのブログで書いてきたので、このフォーラムで個人的に印象に残ったことを今日は書いておきたい。

    たんぽぽの家にしてもYCAMにしても、今回の「表現とケアとテクノロジー」のようなあまり前例のないようなテーマの取り組みや、これまで美術館が扱ってこなかったようなメディアやテクノロジーを使った新しい取り組みを、プロジェクトとして立ち上げ、続けていくことが一番大変なことだと思う。面白そうな取り組み、というだけでは物事は始まらないのだ。

    そのことに関して、たんぽぽの家の小林大祐さんが、このプロジェクトの文化庁事業としての正式名称は「心身機能の変化に向きあう文化芸術活動の継続支援と社会連携」なんですと仰ったことがまず印象的だった。

    ウェブサイトにもあるように、このプロジェクトは、文化庁の「障害者等による文化芸術活動推進事業」として行われているもので、ウェブサイトには以下のような趣旨が書かれている。

    筆を握れなくなる、体が思うように動かせなくなるなど心身の状態が変化したとしても、表現活動を継続したい人や、新たに創作に取り組みたい人、それらを支援したい人たちがいます。

    これに対して、AIやIoTと呼ばれる人間の “知能” “身体” “社会的つながり” に関わる現代のテクノロジーが、障害のある人の生涯にわたる創作や表現に活用されている事例は多くありません。

    そこで、障害のある人やその支援者が、さまざまな技術とともに創作や表現を生み出し、創造的な活動を継続または取り組める環境づくりを、文化庁の事業の1つとして推進しています。

    「Art for Well-being のはじまり」より)

    文化庁の事業、つまり税金が使われる公共性のあるプロジェクトとして、当然だが、多くの人に共感されるようなビジョンやミッションを描くことが求められるのだ。

    一方で、具体的に例えばAIやVRやNFTといった新しいテクノロジーを取り入れたプロジェクトをいきなり始めようとしても、それはプロジェクトの当事者にとってはもちろん、それを事業として採択する側の行政にとっても、ほんとうに何かできるのかの判断がなかなか難しい。そのためには、まずは勉強会やワークショップを開いたりすることで、小さな実績を地道に積み重ねていくことが大事だと仰っていたのにもとても共感した。

    これは公共性のあるプロジェクトに限ったことではないだろう。意味や価値があると信じることを実現するためには、共感を得られる「大きなチャレンジ」を掲げることと、それが絵に描いた餅にならないために日々「小さなトライ」を積み重ねること、その両方が大事なのだ。


    (余談だが、Youtubeでちょうどこんな動画が流れてきた。オチの「チャレンジ1年生」と「家庭教師のトライ」のニュアンスの違いが笑える。。)

  • どんぐりを落としたのは

    気づけば今年も夏が終わり、ベランダにどんぐりが落ちてくる季節になった。

    特にこの季節のどんぐりは、実だけじゃなく何枚かまだ緑の葉っぱがついた状態で枝ごと落ちていて、よく考えると不思議だ。

    こどもたちがまだ小さかった頃、福音館書店の絵本シリーズ「かがくのとも」を定期購読していたのだが、その中の一冊「どんぐりをおとしたのはだれ?」という絵本にその謎が書かれていて印象に残っている。

    実は、枝の先が勝手に落ちているわけではなく、「チョッキリ(絵本に出てくるのはハイイロチョッキリ)」というゾウムシの一種がドングリに卵を産みつけて、枝ごと「チョッキリ」と切り落として地面に落としていたのだ。

    誰に教わるでもなく、枝の先のどんぐりに穴を開け、卵を産んで、穴に蓋をして、自分も落ちてしまわないように少し枝を戻って、枝先を切り落とす。ほんとに不思議。

  • アドラーとVRChat

    中2の息子が夏休みの調べ学習で、最近ハマっているVRChatについて書いていて、これがなかなか面白かった。

    まず、VRChatとはいわゆるメタバースと呼ばれるものの「老舗」の一つだが最近ユーザーが急増して人気になっているらしい。その特徴は、(息子の説明を要約すると、、)

    一言で言えば「VR空間になったSNS」。ユーザーが自分でアバターやワールドを作成・カスタマイズ可能。これにより自由度が非常に高い。

    ユーザーが制作した映像作品が増加中で、日本国内でもVRChatを利用したクリエイターが活躍。

    ユーザー主催のイベントが頻繁に開催され、日常的に楽しむことができる。

    実際に会っているかのような没入感があり、多くのユーザーが世界中から集まって交流している。異文化コミュニケーションが活発。

    ということらしい。息子も実際に自分でUnityでアバターをつくったり、イベントに参加して友達ができたり、英語もVRChatで身につけ始めている。(ちなみに昨日は日本語が上手なインドネシア人と友達になったらしい。)

    さて、ここからが分析パートなのだが、実は息子の最近の愛読書が『嫌われる勇気』(アドラー心理学について書かれた世界的ベストセラー)らしく、図書館で何回も借りてきて、なぜVRChatが人気なのかをアドラー心理学の視点で分析していた。

    VRchatと最もかかわる概念。それは共同体感覚です。他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること。それが共同体感覚です。そしてこの感覚は、幸福な対人関係の在り方を変える最も重要な指標であるとアドラーは言います。この感覚こそ人が集まる要因です。(中略)メタバースという非日常的な空間でありながらも、共同体感覚をユーザーが作れる空間を提供しているのがVRChatだということがわかりました。

    さらに、ChatGPTにアドラーとVRChatについて聞いてみたようで、

    「ワールド作成やイベント企画など、VRchat内での貢献活動は、自分の能力や存在意義を実感する機会となります。アドラー心理学では、貢献感は幸福感に繋がる重要な要素だとされています。VRchatは、現実世界での役割や立場にとらわれず、自分の得意分野や興味を生かして貢献できる場を提供されています。また、VRchat内での活動を通じて得られる成功体験は、自己効力感を高め、さらなる挑戦意欲を刺激するでしょう。」

    というChatGPTの回答が引用してあり、

    何が言いたいかと言うと、現実よりも圧倒的に共同体感覚を感じやすいと言う事です。現実世界での役割や立場にとらわれず、誰もが上下ではない横の関係でつながる環境は、皆が望んでいるものです。そしてつながる人々に自分の内面にある創造力をアバターやワールド制作を通して表現することができます。

    とまとめていた。なるほど。。

    もちろん、全体の文章は冗長な部分や中学生らしい言い回しもあって国語の先生に直されたりしていたようだが、VRChatとアドラーを結びつけようという発想が面白いし、ChatGPTの回答もちゃんと「引用」してる。

    というか『嫌われる勇気』、ベストセラーだしなんとなく内容も知った気になってたけど、俄然興味が出てきたのでちゃんと読んでみることにする。