• 2008年のエイプリルフールは現実になった

    今朝アップデートされたChatGPTのイメージ生成機能がちょっととんでもない、、まだ24時間経ってないけど、やればやるだけ予想を超えてくるというか、いろいろ試して見ても一体どこまで出来るのか、ポテンシャルの限界が見えない。ChatGPT登場時の衝撃に近いものがある。

    いろんな類似研究を吹き飛ばしてしまうだけでなく、本当にイラストやグラフィックの仕事に直接大きな影響があると感じる。凄過ぎて面白いを通り越して唖然とする。
    実はちょうど1年前にこんなことを書いた。

    どんな写真でもLEGO化してしまう画期的なソフトウェアが開発された。20世紀を代表する写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンの名作『サン=ラザール駅裏』が見事にLEGO化されている。
    …というエイプリルフールネタを書いたのが2008年。ちなみにこれらはもちろんAIが生成したものではなく、Mike Stimpson氏による歴史的写真をレゴで再現した作品で、改めて調べてみるとWIREDでも記事になっていた。…

    1年前はまだ実現出来てなかったが、今日、もしかしてと思って「歴史的写真」で検索して出てきた坂本龍馬の写真をChatGPTに「レゴで再現して」と指示してみたら、完璧に実現してしまった。。

    すでにいろんな人がいろんなことを試していて驚くばかりだが、これからもっとたくさんの人がこの凄さに気づいてインパクトは広がるだろうし、権利的・倫理的にもたくさんの問題が起こることも間違いないだろう。

    2008年のエイプリルフールは、2025年のエイプリルフールを待たずに現実になった。

  • あと42日。

    大阪万博開催まであと42日。この2年半間違いなく一番時間をかけてきた仕事。今は最後の調整で半ば大阪に単身赴任状態。メインの展示自体はほぼ完成して、アクセシビリティ対応、オペレーション関連、グラフィック、ウェブ、撮影、取材対応、原稿チェック、内覧会、、まだまだやることはたくさん。

    いろいろ言われているのもわかるし、自分の中にも矛盾や葛藤はあるし、いっそ何にも語らないでおこうかなとすら思う時もあれば、昨日は建築の撮影に来られたフォトグラファーの方に展示を一通り見てもらって、開口一番「めっちゃいい!これは感動する!」と言われて嬉しかった。創作活動あるあるだけど、自分ではもう何百回と見てるのでいいのかわからなくなることがあって、そんな反応が嬉しくて、やっぱりできればたくさんの人に見てもらいたいなあ、発信していかないとなあと、今日はそんな気分で、1週間ぶりに御代田に戻ってきた。

    CORNER SHOP MIYOTAで御代田の集いに顔を出して、先日クラファン目標達成したみよたの広場をはじめ、御代田で活動するいろんなコミュニティの活動報告を聞きながら、こうしてローカルの活動にも引き続きつながっていきたいなあとも思ったりして。(個人的には、どこのコミュニティにも属しているような=どこにも属してないような感じでいたい 笑)

    今万博だけでなく、関わってる仕事もどれもやりがいがあるし、春が近づいて今年も米づくりもしっかりやりたいし、子どもたちの未来のことも考えたいし、本に書いたコンヴィヴィアルなテクノロジーの実践も考えてることがあるし、文章も書きたいし、運動もやりたいし、英語もやりたいし、世界情勢も気になるし、山火事も他人事ではないし、、、

    などとぐるぐると思いながら、明日から再び大阪へ。できる限りをつくす。

  • 自然を美しいと感じる限り

    北軽井沢のスウィートグラスとタキビバで5日間を過ごした「オーサーレジデンス2025」。とてもよかった。心地よさの余韻と前向きな気持ちを持ち帰らせてもらった感じがしている。

    他の8人の書き手の方々とも数日ゆっくり話せて、一方で日常から離れたひとりの時間もつくれて、あと、無限にいられるプライベート手作り露天温泉&テントサウナも最高で。

    昨日のトークセッションもよかった。

    オープニングセッションでは、北軽井沢と縁の深い谷川俊太郎さんの話から始まり、その後、「自然と言葉」「テクノロジーと言葉」「事業と言葉」という3つのセッション。それぞれのセッションがベクトルは違うけど同じ空間で呼応しあってる感じがした。

    たくさん印象に残ったことはあるが、この数日間の会話を含めた8人の書き手の皆さんのことを無理やり一言ずつまとめるなら、、

    稲葉俊郎さんの、「治す」場(医療)から「治る」場(温泉)へのシフト、目が離せない!
    内沼晋太郎さんの、B&B、バリューブックスだけじゃない活動幅広すぎ!(3時間のPodcast聴くべし!)
    内村寿之さんの、エピソードとあわせて「解凍できる言葉」づくり、共感!
    荻原貴男さんの、高崎にある抗う本屋REBEL BOOKS、必ず行きたい!
    図Yカニナさんの、「覚えていること全部書く」退行催眠日記、興味深い!
    ナカムラケンタさんの、日本仕事百貨、ここで求人したくなる&仕事見つけたくなるのわかる!
    廣畑達也さんの、経済性と社会性の両立を諦めない姿勢、見習いたい!
    山田裕嗣さんの、ソース原理や次々出てくる組織づくりの事例、取り入れたいヒントたくさん!

    という感じ。(雑ですいません…。)

    ちなみに、担当した「テクノロジーと言葉」のセッションで僕が話したかったことは、「言葉は考える手段でもあり、感じる道具でもある」という、金田一秀穂さんがどこかで言われていた言葉。都市的な(もしくは情報的な)世界にいすぎると「考える手段」としての言葉に偏りすぎるんじゃないかということ。言葉から言葉を紡ぐAIもあくまで「考える手段」としての言葉なんじゃないかということ。

    対照的に、最終日の朝、きたもっく福嶋さんが紹介しくれた谷川さんの詩は、まさに「感じる道具」としての言葉だなと思った。

    からまつの変らない実直と
    しらかばの若い思想と
    浅間の美しいわがままと
    そしてそれらすべての歌の中を
    僕の感傷が跳ねてゆく
    (その時突然の驟雨だ)

    この詩を読みながら、改めて窓の外のからまつや、しらかばや、淺間山を眺めると、感じ方が明らかに変わる。そしてその感覚は、読み手だけではなく、谷川さん自身にとってもそうだったんじゃないか。

    「自然と言葉」のセッションで稲葉さんが、温泉に入ったあと温泉成分表を見て自分の感覚との答え合わせをすると言っていたのも面白かった。ソムリエがいろんな言葉で味や香りを表現するのも同じだろう。谷川さんの詩も温泉成分表も「感じる道具」としての言葉なのだ。

    それにしても、このイベントは自然の中で数日間を過ごしながら言葉について考える、という場の設定がとても絶妙だったと思う。

    最後に、

    「自然を美しいと感じる限り、人間まだ捨てたもんじゃないと思っている。」

    という、クロージングセッションでの福嶋さんの言葉に希望をもらった。そうありたいし、そうだといいなと心から思う。

  • 言の葉の焚き火

    昨日から北軽井沢スウィートグラスで「オーサーレジデンス2025」という企画に参加している。

    真冬の北軽井沢で
    9人の書き手が灯す
    言の葉の焚き火…
    森はそよぎ山はゆれ
    月も耳をかたむける

    本の書き手や編集者が集い、今週土曜日にTAKIVIVAでのトークセッションが行われるのだが、トークセッションを前に3日間、キャンプ場のコテージで過ごすという面白い企画。

    3日間の間、特に予定らしい予定が組まれているわけではなく、思い思いに「何もしない」をする。

    トークイベントでは、普通は直前に集まって話すことも多いが、3日前から日常を少し離れ、ゆっくり考え、ゆるやかにお互いを知った上でのトークがどう展開するのか楽しみだ。

    窓の外に雪の降り積もる森を眺め、、焚き火の火を見ながら、、ん?あんまり普段と変わらない?笑

    まあまあ、でもなるべく仕事の予定も最低限にして、積読になっていた本を何冊かスーツケースに入れてきた。

    土曜日に担当するトークセッションのテーマは「テクノロジーと言葉」ということで、今回書き手として呼んでいただいた自分の単著は『コンヴィヴィアル・テクノロジー』一冊なので(まあAIの話も避けて通れないだろうとは思いつつ)もう少し広くテクノロジーと言葉について考えられたらと思う。

    とりあえず、買ったままずっと読めていなかったイヴァン・イリイチの『テクストのぶどう畑で』を読むことにする。

    1章 知へ向かう読書
    2章 秩序、記憶そして歴史
    3章 修道士の読書
    4章 ラテン語で<読書すること>
    5章 学者の読書
    6章 記録された話から思考の記録へ
    7章 書物からテクストへ

    相変わらず文体は読みづらそうだけど、タイトルと目次は面白そう。

  • 「安全保障化」されなかった「人間の安全保障」

    「安全保障」という言葉を最近よく目にする気がして気になって調べてみた。

    近年、従来の「国家の軍事力や主権の防衛」といった概念から拡大して、経済、食糧、エネルギーなどいろんな分野に「安全保障」という概念が持ち込まれるようになっている。

    それは、ある問題が「安全保障上の脅威」として語られることで、緊急性を帯びた問題として「特別な権限や強制力」が正当化されるからだ。こうした、(トランプのような)アクターが脅威を訴え、オーディエンス(国民)がそれを受容するプロセスを「安全保障化(Securitization)」というらしい。

    「安全保障」は、守られる内側と脅威とみなされる外側を決定的に分断するが、問題を「安全保障化」すると、分断も正当化されポリティカルコレクトネスをもってしまうのだ。

    もちろん、リアリズムとして生存と安全は大事である。個人の、家族の、地域の、国家の安全保障、大事である。ただ、「安全保障」と言えば何でも正当化されてしまう危うさも頭に入れておきたい。

    実は2000年前後には、別の「安全保障」の概念を拡大する動きがあった。

    地球規模の脅威に対して国家の枠組みを超えて「すべての人間のいのちの尊厳や自由を守る」という「人間の安全保障」という考え方だ。緒方貞子さんらの尽力もあって日本政府の提案をきっかけに国連でも決議され、日本のODAやJICAの大きな方針としても掲げられている。

    でも、いま世界で起きているのは、少し前まで国際的な議論がそこまで来ていたとは思えないような真逆の動きである。

    残念ながら「人間の安全保障」は「安全保障化」されていない。

    繰り返すが、リアリズムとして、個人の、家族の、地域の、国家の「安全保障」、大事である。(そもそも米や薪づくりも我が家の食糧・エネルギー安全保障だなあ、なんて思ったのがこの言葉が気になり始めたきっかけだ。)

    リベラルやポリティカルコレクトネスにも行き過ぎはあって、むしろそれが「なんでも安全保障化」の流れを生んだとも言えるかもしれない。

    でも、改めて国連の「人間の安全保障」の文章を読んでいると、やっぱりこっちに進んでいきたいなあ人類、と思うのである。

  • 「わからない」と「やってみる」のあいだ

    いろんなプロジェクトに関わっていると「先が見えない」という場面に直面する時がある。そういう時は、実験でもユーザーテストでもミーティングでも、何はともあれ「やってみる」ことが大事。やると決めたら「いつやるかを決める」のも大事。

    でも、そこで「じゃああとはその時に」とならないように。
    「やってみないとわからない」
    「上手くいくか不安」
    をそのままにして「やってみる」に臨もうとしていないか。

    「やってみないとわからない」はその通りだとして、具体的に何がわからないのか?やってみて何がわかるといいのか?

    「上手くいくか不安」だとしたら、どうして不安なのか?
    「上手くいく」想像ができているか?
    「上手くいかない」としたらどういう状況がありえるか?
    「上手くいく/いかない」を決める不確定要素は何か?

    「わからない」から「やってみる」までのあいだに、想像する、調べる、洗い出す、手を動かす、、
    手詰まりのようでも、「わからない」の解像度を上げるためにできることは実はかなりある。不確定要素だと思ったことが実は確定できることも結構ある。

    ただし。

    試作検証もユーザーテストもミーティングも、事前準備したことを確かめるだけが目的ではない。「やってみる」時は、あくまで想定外のセレンディピティを受け入れるオープンなマインドで臨むべし。

    そこまでやってきたことをサンクコストと捉えず、常にいまそこからのベストを考える。
    仮説のバイアスや先入観を捨てて、ありのままを見る。
    小さいけど大事なインサイトやクリエイティブジャンプやアブダクションの瞬間を見逃さないように。

    「やってみる」をただの確認じゃなくて創造的なものにしたいなら、それまでにできることはやりきって、考えられることは考えてきって、でもあくまで、フレッシュでニュートラルでフラットなマインドで「やってみる」のが大事。

  • 当たり前の有り難さ

    今年は久しぶりに家族で熊本に帰省しての年越し。予定らしい予定を入れず、昔よく行っていたお店にご飯を食べに行ったり、甥っ子のおすすめの上乃裏通りの古着屋を巡ったり。気づけば子どもたちも一緒に街歩きが楽しめるようになっていて嬉しい。

    帰りの便は久しぶりに窓際の席で、窓からの眺めに心を奪われる。山、雲、海、高度1万メートル、エベレストの頂上より高い視点からの絶景。(ちょうど行きの飛行機の着陸のタイミングで韓国の飛行機事故のニュース速報が流れてきたのもあるけど)何気なく当たり前のように乗っている飛行機って改めてとんでもないテクノロジーの塊。

    そして、帰ってきてぼんやりInstagramを見ていたらニセコの大切な友人、SEED BAGELの平野さんが年末に雪崩に巻き込まれて九死に一生を得ていたことを知る。noteを読んだら、完全に雪に埋まって全く身動き取れず、一度気も失っていたようで、ビーコンをつけていたのが助かった理由の一つではあるようだけど、いろんな幸運が重なって大きな怪我もなく生きて助けられたのが奇跡としか言いようがない。(救助してくれた方が、今まで30人ぐらい雪の中から掘り出したけどみんな死んでた、と。。)ほんとにほんとに無事でよかった。。

    今年の抱負は、当たり前のようなことの有り難さを忘れないこと、かな。

    奇跡のような毎日に感謝しつつ、次の世代にも少しでもそれが続いていくことに関われるといいなと思う。

  • しめ縄なう。

    慌ただしい年の瀬も少し一段落して、昨日はコードマーク御代田のしめ縄づくり体験会に息子と参加。

    御代田に来てから毎年買わせて頂いているしめ縄をつくられている茂木茂さんから直々に教えていただいて自分たちでつくるしめ縄。

    この地域のしめ縄は「ごぼうじめ」と呼ばれるまっすぐなしめ縄。ミニマルでカッコいい。

    まずは藁を束ねて、普通の縄をなう練習。

    手を合わせてこんなふうに、と茂さんがやるとなんでもないように藁がより合わさっていくが、やってみると、手が乾燥して滑るし力加減も難しい。

    そしていよいよしめ縄。やることはほとんど変わらないが、神様を迎えるものなので、通常の縄とは逆向きによっていくのと、藁束を3つに分けて、まず2つの束をよって、さらにそこに3つめの束をよりあわせていく。慣れてくるとそれなりに形になってきて面白い。

    南天の実、松葉、稲穂、紙垂を飾り付けて完成。

    自分たちで米をつくり、できた藁で縄をなう。感慨深い。

    「縒る(よる)」とか「綯う(なう)」っていう日本語も美しい。とりあえずSNSに「しめ縄なう。」と投稿してみた。昨日だけど。

  • それぞれのリアル

    いろんな立場のいろんな人の大統領選振り返りを見聞きして、どれもなるほどなーと勉強になった。

    どっちを支持してたかもさることながら、マスメディア、ネットメディア、個人の発信、いろんな世代、日本、アメリカ、ヨーロッパ、BRICS、GS、見え方もいろいろ。どんな見方も馬鹿にしてはいけないリアル。

    世界がそんなそれぞれのリアルが干渉するリアリズムへ向かうとして、リベラルな視点が必要ない訳じゃないし、むしろ難しくなるからこそ、言ってるだけじゃなくて目の前の自分にできることやりたいことと繋げていかないといけないよなあと。

    コンヴィヴィアル(共に生きる)、むずいなー。

  • できることをやる

    わたしたちはしばしば、
    できることをできないと過小評価しがちで、
    できないことをできると過大評価しがち。

    本当にできないのか?
    本当にできるのか?
    自分にできることは何か?

    ちょうど自分にできるギリギリをやる。

    「できることをやる」って言うと当たり前のようだけど、ポイントは「できることだけやる」でも「できること全部やる」でもないところだろうな。時間は有限で、近いところから全部やろうとしたらギリギリまでいけないし、自分が影響を与えられない遠すぎることを考えたり言ったりしてるだけでも何も起きない。

    ちょうど自分にできるギリギリを見極めて、やる。

    今週の学び。