自由の相互承認

先日の続き。哲学者で教育学者の苫野一徳さんによれば、そもそも、お互いがお互いの自由を認め合おうとする「自由の相互承認」は、人間同士がようやく近代になって辿り着いた根本原理であるという。

自分は「自由」だとただナイーヴに主張し合うのではなく、相手が「自由」な存在であるということ、「自由」を欲する存在であるということを、まずはお互いに承認し合うこと。そしてその上で、互いの「自由」のあり方を調整し合うこと。これ以外に、凄惨な命の奪い合いを終わらせ、わたしたちが「自由」を手に入れる道はない。そうヘーゲルはいうのだ。
(中略)
ではわたしたちは、どうすれば「承認のための戦い」を終わらせ、自らの「自由」を獲得することができるだろうか? ヘーゲルによれば、その考え方は一つしかない。それが、先に述べた「自由の相互承認」の原理である〔原注:「自由の相互承認」という概念は、ヘーゲルの哲学を再構築した竹田青嗣によって定式化されたものである。(『人間的自由の条件ーヘーゲルとポストモダン思想』)〕。「自由の相互承認」、それは、わたしたち人間が共存するための、そして一人ひとりができるだけ十全に「自由」になるための、社会の根本原理なのだ。

苫野一徳『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』

 「自由の相互承認」が社会の根本原理であるならば、脱人間中心的な考え方が問おうとしているのは、この「自由の相互承認」を(Black Lives Matterやジェンダー、マイノリティの問題をはじめまだまだ人間同士のそれもままならないなかで)人間「以外」にも拡張できるか?という問いである。

(『コンヴィヴィアル・テクノロジー』第5章 人間と自然 より)


この言葉を知るきっかけは、それこそコロナ以降の移住を考え始めた時期で、いくつかの候補の中で軽井沢周辺を調べていた時に、軽井沢の風越学園のドキュメンタリーを撮っている映像作家の知り合いの投稿を見かけたのがきっかけだった。結局我が家は風越学園には行っていないが、その根幹の思想にこの「自由の相互承認」という考え方があると書かれていて、苫野一徳さんがYoutubeで話している動画を見たりしながら、それこそ小学生でも理解できる概念でありながら、これはなかなか奥深いぞと思ったのを覚えている。

そしてこの「自由の相互承認」という考え方は、『コンヴィヴィアル・テクノロジー』全体に通底している考え方の一つでもある。人類史全体として見れば、近代から現代にかけて人間同士については実はかなりの程度「自由の相互承認」は実現されてきたとも言え、それは希望でもある。が、これから先はどうか。再び『コンヴィヴィアル・テクノロジー』から第6章の冒頭を引用しよう。


 前章で「人間と自然」について考え、たどり着いたのは「自由の相互承認」をどこまで拡張するべきかという問いであり、「人間と自然」の関係の先に見えてきたのは「人間と人間」の関係であった。自分の自由のために他者の自由を奪うことなく、お互いの自由を認め合おうという「自由の相互承認」の概念は、現代においては(少なくとも理想としては)一般通念として共有されていると言っていいだろう。自分だけでなく、自分の家族だけでもなく、学校や仕事でつながる人たち、SNSでつながる人たち、地域でつながる人たち、同じ国の人たち、ひいては、人種や出生や能力にかかわらず地球に暮らすすべての人たちに、お互いの自由を奪わないかぎりにおいて自由に生きる権利がある、という想像力を少なくともわたしたちは持ち得ているのである。このことは、奪い合いの戦争を繰り返してきた人類の歴史を振り返れば決して当たり前のことではなく、現代社会がたどり着いたひとつの希望である。「わたし(I)」の自由から、「わたしたち(We)」の自由へ。そしてこの「わたしたち(We)」にどこの誰まで含めるのかという想像力が、家族や身近な仲間から世界中のあらゆる人、まだ生まれていない未来の人、さらには他の生き物や人工生命といった人間以外の存在へと拡張されてきた。そして、間違いなくテクノロジーの存在もそれに寄与してきたはずである。
 しかしながら、地球上の人口が増え続ける一方で、使える資源には限りがある。さらには人新世という言葉が表すように、人間の活動による自然環境の変化が、人間が生きるための環境に影響を与え始めてもいる。少なくともこれからもいままでのようなペースで資源を使い続けていくことが、いまを生きるすべての人たち、さらには未来の人たちの自由を奪うことになることは明らかになりつつある。もしすべての人が不自由なく生きられるほどの資源が未来永劫十分にあるなら、ある意味「自由の相互承認」はたやすい。「お互い好きにやろう」でいいのだ。しかし、拡張されていく「わたしたち(We)」に対して、現実には「わたしたち(We)」が生きるための環境や資源に限りがあり、必然的にお互いの自由は干渉し合い、「自由の相互承認」はどんどん難しくなっている。「お互い好きにやろう」とは言っていられなくなっているのである。

(『コンヴィヴィアル・テクノロジー』第6章 人間と人間 より)


コロナもまさに「お互い好きにやろう」とは言っていられない状況だったし、戦争や災害、そして気候変動や資源や食糧やエネルギーの問題もそうだろう。これからも「お互い好きにやっていく」ためにはどうしたらいいんだろう。