• 都市にひそむミエナイモノ

    前夜の東京最新スポット虎ノ門ヒルズと今住んでいる長野御代田のくらしの振り子の振れ幅にややクラクラしつつ、この日は、有楽町のSusHi Tech Squareで開催中の「都市にひそむミエナイモノ展」へ。(SusHi Tech Squareってどこ?と思いながら辿りついたが昔有楽町MUJIがあった場所だった。)

    作品を見ながら考えたことをメモ。

    Metabolism Quantized / gluon

    取り壊されてしまう「名建築」を3Dスキャンしデジタルアーカイブとして未来に残す試み。どうすれば建築・都市の記憶を残せるか。「ミエナイモノ」として例えば気配のようなものまでアーカイブできるか。残せるとして残したものをどう再体験できるか。構想の途上にあるプロトタイプだと思うが、そうした課題も見えることがプロトタイピングの意味だろう。

    About their distance / セマーン・ペトラ

    日本のアニメに影響を受けたハンガリー出身の作家による、いわゆる「聖地巡礼」をテーマにした映像作品。「巡礼者」たちは現実の風景を見ながらそこに作品世界も同時に見ている。現実と虚構の重なり。そもそも、作品世界だけにとどまらず、わざわざその世界を重ねるために現実の場所を訪れたくなるのはなぜだろう。

    How (not) to get hit by a self-driving car / Tomo Kihara & Playfool

    人間を画像認識する自動運転車のAIに対抗して、人間と認識されないように横断歩道を渡り切るゲーム。AIに勝ったとしたらそれは実際なら自動運転車にはねられているということでもある。多層的で深いコンセプトを子どもでも楽しめる完成度の高いゲームに落とし込むのが流石。

    かぞくっち / 菅野創+加藤明洋+綿貫岳海

    これまでも子どもとワークショップに参加させてもらったりしている人工生命ミニロボットを使ったライフゲーム的な作品。展示のたびにミニロボットの設計も洗練され、この世界の歴史みたいなものも出来てきている。人工的なフレームの中だけでなく、屋外とか自然環境の中に放ってみたらどうなるだろう。

    Artificial Discourse: すばらしい新世界に向けて / Qosmo

    答えのない複雑な社会問題などについて、別の人格をシミュレートした3人のAI同士が延々と議論を繰り返す。一見議論は建設的で噛み合っているようで本質的には何も進まず、ありきたりの正論を堂々めぐりする。さて、人間同士の会話や議論はどうかと考えさせられる。AIの表情やイントネーションが不気味の谷の影がちらつく絶妙な不自然さで秀逸。

    あの山の裏/Tire Tracker / 藤倉麻子

    今住んでいる御代田も周囲を遠く見渡すとアルプスや立山連峰などの山々に囲まれていて、かつて人はあの山の裏に何があると想像しただろうと思うことがある。都市郊外で育った作者は巨大な物流センターやショッピングモール、もしくはタイヤの痕跡といった人工物の背後を想像する。自然とはその人が生まれた時にすでにあるものであるという言葉を思い出す。

    オバケ東京のためのインデックス 序章 Dual Screen Version / 佐藤朋子

    岡本太郎が1960年代に掲げた「オバケ東京」という都市論と同時代に生まれたゴジラに着目し、ゴジラが破壊した「もう一つの東京」を追うレクチャー。

    Parallel Tummy 2073 / 長谷川愛

    「陸地・海上などの住環境を選択でき、人工子宮が可能になった未来」をテーマとした参加型ロールプレイワークショップの記録。長谷川愛さんらしいスペキュラティブなテーマ設定。

    レクチャーやワークショップは参加したらとても面白いだろうと思いつつ、こうした取り組みを展示で伝える難しさも感じる。

    東京藝大八谷研究室の2人の作家の特別展示もよかった。コロナで中止された花火大会を日本地図上で再現する作品と、想像上の生き物であるユニコーンを臓器なども含めてつくり「蘇生」させようとする作品。どちらもコンセプトと表現のディテールが素晴らしかった。

    塚田有那さんの最後の仕事になってしまったこの展覧会は、都市=人工、田舎=自然といったステレオタイプではなく、都市の中にも、人それぞれに感じる愛着や気配や人以外の存在といった「見えないもの」を見いだそうとしている。アートとサイエンス、テクノロジーとカルチャーなど、一見異質な世界を繋ぎながらいろんなプロジェクトを手がけてきた有那さんらしいキュレーションで、それぞれの作品もとても面白くかつ考えさせられる展覧会だった。

  • ALL ON?

    米を作ったり、薪を割ったり、地元の温泉宿での新年会に参加したりといったことを書いていると、もう東京には来ていないと思われたりするが、なんだかんだ週に1,2回は東京で仕事をしているし、相変わらず新しいテクノロジーに触れる機会も多い日々である。

    Takramでは、世の中の変化をキャッチアップするために、自主的なR&Dなどに取り組む「Mark@」という仕組み(Takramを逆から読むとMarkatという言葉遊びだが、それぞれの専門分野を常に探索してマーキングするような意味が込められている)がある。

    僕が参加しているMark@Design Engineeringでは、デザインエンジニアリングに関連する新しいデバイスやテクノロジーにいち早く触れて実験をしたり、展覧会やイベントのリサーチなどを日々行っていて、この日はその一環として、虎ノ門ヒルズTOKYO NODE LABで行われた日テレ共創ラボ主催のCES2024報告会に参加してみた。

    CESは毎年1月にラスベガスで行われる世界最大規模のコンシューマーテクノロジーの見本市で、今年は本格的にコロナが明けた年ということで注目度も高かったようだ。

    以下、報告会のメモ。

    CESを主催しているCTA(Consumer Technology Association)は設立100周年。CESも50年以上の歴史。

    2024年のキーワードは「ALL ON」。何でもあり?全部のせ?

    大企業中心のTech East、スタートアップ中心のTech West、メディアコンテンツ系のTech Southの3会場に4300社、13.5万人が参加。

    CTAによるTech Trend to Watchでの今年のトレンドは「AI」「サステナビリティ」「インクルーシビティ」「ジェネレーションパワー」

    あらゆるカテゴリーでAI,AI,AI…。

    サステナビリティはもはや当たり前。

    インクルーシビティは例えばロレアルが障害者向けのメイクアップツールを出していたり。

    AI x ビューティーテック。ロレアルが基調講演。資生堂はスキンケアARナビ、鼻の骨格から未来の肌悩み推定など。

    AI x ヘルステック、AI x スポーツテック、AI x スリープテック、AI x ペットテック、AI x エイジテック、、(エイジテックで紹介されてたElli Qは、だいぶ前に見た気がすると思ったら2017年にイヴ・べアールのfuseprojectがデザインしてたやつだ。)

    モビリティ領域は、AI化、ソフトウェア化、プラットフォーム化。

    XR領域は、有象無象がHMDを展示。(でも話題の中心はVision Pro?)

    Canonのボリュメトリックキャプチャ。(TOKYO NODE LABにはボリュメトリックキャプチャスタジオが併設。)

    イベント時の無線の混雑を解決するVIREWIRX気になる。

    SONY x EPICのTORCH LIGHT。(SONYはシカゴにWONDERVERSEをオープン。)

    LGは透明OLEDディスプレイ。

    今年はSphere見たさに来ている人も多かった。

    日テレR&Dは情報発信を頑張った。(確かによく見かけた)

    全体感を掴むにはちょうどよいボリュームのレポートでふむふむと思いつつ、日テレR&DのXではもっとたくさんのレポートが挙がっていたので紹介されなかった話もたくさんあるだろう。また一応他のCESレポートも見てみると、例えばこのレポートでは、基調講演も行ったシーメンスによる産業、製造業領域のDX(Microsoft、AWS、ソニーとのパートナーシップなど)に注目していてこうした違いも興味深い。一つの視点だけでわかった気になってはいけないし、見に行ってみないとわからないこともある。

    とは言え、そもそもこうした派手なテクノロジーショー自体が今後どうなっていくのだろうと、やや引いた目線で見ている自分もいる。「ALL ON」と言われると、こうしたテクノロジーがあらゆる領域に広がっている印象があるが、世界はもっと広いよと言いたい気もするのである。

  • 山のメディスン

    軽井沢病院の院長を務める稲葉俊郎さんの新著『山のメディスン』を読み始めた。

    軽井沢界隈で知り合った人に言うと大抵驚かれるが、実は稲葉さんは同じ熊本高校の一年後輩である。ただし出会ったのは数年前の東京でのことだった。

    その時わたしは21_21 DESIGN SIGHTで「アスリート展」という展覧会のディレクターを為末大さん、菅俊一さんと一緒にやっていて、時間をかけて展覧会の企画やリサーチをしていた時期だった。21_21 DESIGN SIGHTを運営しているイッセイミヤケの社内勉強会で稲葉さんの講演があり、身体や心といったテーマがアスリート展にも関連するので特別に参加させてもらうことになったのだが、事前にプロフィールを読んでいたら同じ高校出身で学年も一つ違いで驚いたのを覚えている。

    当時東大病院に勤めていた稲葉さんは、その後軽井沢に移住されることになり、ちょうどコロナが警戒され始めたくらいの時期に東京での移住前の最後のトークイベントを聴きに行って話をしたりもしていたが、まさか自分も近くに移住してくることになろうとはその時は思ってもみなかった。

    稲葉さんは、東大医学部卒で、東大病院で最先端の医療にも関わりながら、山岳医療や在宅医療、民間療法、はたまた思想、哲学、芸術にも造詣が深く、山形ビエンナーレの芸術監督までやっていたりと、まあとにかく凄い人である。これまでにも本も何冊か書かれていて、すっと入ってくることばがとても深く、「ことばのくすり」という表現がまさにぴったりという感じがする。

    新著の「山のメディスン」では、幼少期の話から高校、大学の頃の話から山にのめり込んでいく経緯、そして山が教えてくれたことがいろんな角度から綴られている。ゲスト出演されていた軽井沢FMのひのなおみさんの番組「軽井沢Book Journey」も面白かった。今週末も後半が放送される。

    まだ読み始めたところだが、同じ地元で高校、大学も同じ環境なので、想像できるところ、共感できるところ、でも自分とは全然違うところがあってとても面白かった。高校は学校抜け出してレコード屋と古本屋に入り浸っていた(僕はあまり疑問も持たずに授業受けてたなあ…)とか、でもそこから東大医学部を目指して合格してしまう(同じ東大でも理Ⅲはまた異次元だよ…)とか、やっぱり只者じゃないなと思う(笑)。

    ただ、受験勉強のエピソードでの試験問題との向き合い方はとても共感した。

    試験問題には必ず作成者が存在しており、意図があることに気づきました。

    そこで、将棋の対局の手法を応用することにしました。つまり、模範解答を読みながら、問題作成者の意図を読み取るように心掛けたのです。将棋も試験も相手の行動の先を読むという点で共通しています。

    (中略)

    どちらがどこまで相手の行動の先を深く読めるか?顔も知らない問題作成者と真剣勝負の将棋の対局を続けるようにして試験問題に対峙していました。そうしたことを続けているうちに、試験問題の奥深くにある意図の本質が分かるようになってきたのです。

    稲葉俊郎『山のメディスン』

    僕は将棋は出来ないが、問題作成者とのやり取りは本当にそう思う。問題が解ける時というのは、例えば数学なら、ああ、この問題はこれを理解してるかどうかをチェックしたくて作ってるんだなあとか、この問題は1次関数と円の面積と三平方の定理の3つを1問でいっぺんにチェックできるようになってて考えた人は頭いいなあ、とか思ったりする。

    試験というのはスポーツで言えば試合である。分かっていても制限時間内に出来なければ分かっていないのと同じ扱いになってしまうルールがあり、そのことの是非はともかく、大会本番の試合で、決められたルールで勝ち負けが決まるゲームなのである。

    しかも稲葉さんの場合、模範解答を読みながら問題作成者の意図を読み取るというアプローチも興味深い。いまの教科書や指導要領はどちらかというと教える前にまず考えさせるところから始まる。それが間違っているとは言わないが、文章を書くにはたくさん本を読んだ方がいいように、まずいろんな問題と解答をセットで読むのもありじゃないかと思っていたので、そうそうと頷きながら読んだ。

    というわけで、まだ山の話に辿り着いてないので(笑)、また読み進めながら書くことにしよう。

  • 実験の民主主義

    少し難しそうな本を読む時、最近はまず著者の話しているYoutubeの動画を見てみるようにしている。ずはりその本について語っている動画でなくても、その人の考え方や人となりがわかり、読む時もなんとなく著者のことを想像しながら読み進めることが出来るからだ。

    宇野重規さんのことも、去年『保守とリベラル』『民主主義とは何か』といった本に興味を持って、どんな方だろうとゲンロンカフェでお話しされているのを見たら、内容もさることながらその柔らかい話ぶりがとても魅力的な方だった。

    トクヴィルについても、元々こうした宇野さんの本や動画で知っていたのだが、今回の『実験の民主主義』は、編集者の若林恵さんが聞き手となって重ねられた対談をまとめた本になっている。

    元WIRED編集長で、その後黒鳥社という出版社を立ち上げ、政治やカルチャーやテクノロジーなど幅広いテーマをユニークな視点で切り込んだ面白い本をいくつも出されている若林さんは、何度か(つい最近も)お会いしたりもしているが、常に今この人は何を考えているだろうと気になる人の1人である。イリイチやコンヴィヴィアリティのことも、最初に知ったのはのは確か若林さんの文章がきっかけだったように思う。

    そんな訳で、この2人の組み合わせの本を東京駅の本屋で見かけて、これは読まない訳にはいかないと手に取ったが、期待通りのとても面白い本だった。

    本書はまず、19世紀フランスの貴族だった政治思想家トクヴィルの印象的な言葉を引用しながら、トクヴィルが目の当たりにしたアメリカという新しい社会と、いま私たちが目の当たりにしているデジタル社会とを重ねながら話が展開していく。

    新しい時代には、新しい政治学が必要である

    新しく生まれたアメリカという国に民主主義がゼロから生まれていくさまは、まさに今デジタルテクノロジーによって民主主義のあり方がゼロから問われている状況と重なる。

    もはや過去は未来を照らし出さず、精神は暗闇のなかを歩んでいる

    新しい時代に変わろうとする時の先の見通せない状況も今と重なる。

    アメリカで、自分はアメリカ以上のものを見た

    トクヴィルは「民主主義の実験場」としてのアメリカに「これからの世界」の趨勢を見た。

    諸条件の平等

    トクヴィルが見たのは「平等化」の趨勢であり、これが民主主義の本質だと彼は考えた。

    銃、印刷、郵便

    「平等化」を促したのはこうしたテクノロジーだとトクヴィルは捉えた。特に「情報」を平等化した印刷と郵便は、パーソナルコンピュータとインターネットに重なる。アメリカ独立の立役者ベンジャミン・フランクリンが気象学者で印刷屋を経営していたことも今IT業界のリーダーが政治に影響を与えている状況に似ているし、平等化が混乱ももたらし、アンドリュー・ジャクソンというまるでトランプのような大統領が生まれたりもしている。

    この「平等化」は人々の想像力を変容させ、それは不可逆な変化なのだと宇野さんは言う。人は誰もが平等であるということに気づくともう後戻り出来ないと。(召使いは自分の仕える人と自分は違うと考えていたし、貴族の夫人は着替える時召使いの前で裸になっても恥ずかしくなかったが、もうそんな状況には戻れない。)

    そして、この平等化は決していいことだけでなく、同じであるはずと思うからこそ違いが気になるようにもなるし、拠り所が失われて孤独にもなる。

    まだ第一章だが、今を読み解くヒントがトクヴィルの見たアメリカにあるという視点はとても興味深い。

    つづく。

  • 本と読書

    仕事で久しぶりに国分寺へ。10年以上前に住んでいたことがあるが、たぶんそれ以来だ。

    あまり時間の余裕がなかったが、お昼に胡桃堂喫茶店に寄ることができた。『ゆっくり、いそげ』の影山知明さんがつくった西国分寺のクルミドコーヒーに続くもう一つの喫茶店である。

    https://www.instagram.com/p/C27cgj-ygkU/

    すりガラス越しの光が柔らかい少し暗めの店内は、どちらかというと一人の客が多く、それぞれ思い思いに本を読んでいたりして、ゆっくりとした時間が流れるいい空間だった。店内の本棚にある本は購入することができるが、蔦屋書店のようなコーヒーが飲める本屋さんという感じではなく、あくまで本も買える喫茶店である。

    メニューも工夫されていて「読み物セット」なるメニューがある。階段の踊り場に置かれた小冊子と飲み物がセットになったメニューで、試しに注文してみた。ちょうどコーヒー一杯を飲みながら読み終えられる数ページの小冊子。選んだのは喫茶店についてのエッセイで、店のすりガラスや薄暗さの理由にふむふむとなる。階段の本棚には、先日書いた伊藤亜紗さんの『体はゆく』もあり、思わず手に取って一緒に購入した。

    ところで、TakramではBook Purchaseという、買った本を他のメンバーにシェアするという条件付きで事実上本買い放題の仕組みがある。以前noteでも書いたように、会社としてコストはかかるが、みんなの学びや創造性を刺激する効果としてそのリターンは大きいと感じている。

    ただ、最近ほとんどの本をAmazonで買っていることが改めて気になっている。社内slackのbookチャンネルでも、購入リンクは基本Amazonのリンクが貼られるので、他のメンバーがシェアしていて気になる本はついまたAmazonで買ってしまう。

    もちろんAmazonで多種多様な本がすぐに手に入るのは価値あることだが、ワンクリックする前にちょっと一呼吸おいて、リアルな町の本屋さんで買ってみるとか、ネットなら例えばValueBooksのような面白い取り組みをやっているところで買うというのを最近は心がけている。(この文章の中の本のリンクも本屋さんや出版社のリンクにしてみた。)

    ちなみに、御代田仲間でもあるValueBooksの内沼晋太郎さんが始めた、著者をゲストに新刊を紹介する本チャンネルというYoutubeが面白く、それも見ると買いたくなるのでその時もValueBooksで買うようにしている。

    なんだか最近、本を書いている人、編集者、出版社をつくった人、本の印刷をしている人、など、本に関する仕事をしている人とのつながりが増えてきた気がする。本や読書の話もまた少しずつ書いていきたい。

    つづく。

  • 厭わずつくる

    先日、中学生の息子と面白いゲームと面白くないゲームの違いは何かみたいな話になり、お父さんが子どもの頃にハマった「プリンス・オブ・ペルシャ」っていうゲームがあってね、、とYoutubeで見せようと思ったら、貴重なメイキング動画を見つけてしまった。

    やったことがある人にしか伝わらないかもしれないが、このゲームで印象的なのは、なんと言っても主人公の妙に生々しい動きである。急にUターンした時の慌てながら方向転換する様とか、壁に手をかけてよじ登るアクションとか、いちいち生々しく、だからこそギロチントラップにかかったり、針山に刺さったり、ジャンプし損ねて落ちたりするのが怖くてドキドキしたものだが、なんと作者のJordan Mechner氏のYoutubeに、キャラクターの動きをつくるために1986年に撮影されたビデオロトスコープ(ビデオで撮影した実際の動きを一コマずつトレースしてアニメーションをつくる手法)の元動画がアップされていたのだ。PCの解像度も容量も処理能力も限られていた当時、あの動きはこんな労力をかけてつくられていたのかと驚いた。

    人は制約のなかでの当たり前、ゲームでいえばその時代の「ゲームはだいたいこんなもの」という予想を超えるクリエイティビティにまれに出会うと、驚き、感動する。

    もちろん、コマ撮りのクレイアニメや、手描き時代のディズニーアニメなど、映像の世界ではこうした気の遠くなるような作業の積み重ねで作られた作品は多く作られてきたと思うが、ゲームのようなプログラミングの世界では、物理シミュレーションのようにゲーム世界のルールやアルゴリズムを設定してそれに基づいてキャラクターを動かしたりすることが一般的ではないだろうか。

    そもそもプログラミングは、同じことを100行書かなくてもfor文使えば一行で書けるみたいに、省力化に向くものであり、プログラマーはそんな「手間を省くための手間を惜しまない」傾向があるとも思っている。

    しかし、以前美大でプログラミングを教えていた時に、そもそも100行でも1000行でも繰り返し書くことを厭わないタイプの人も一定数いることを知った。そして中にはそうした労力を厭わない膨大な作業とプログラミングを思いもよらぬ形で組み合わせて面白い作品を作る学生もいた。

    例えば、(ちょっと誰の作品か忘れてしまって申し訳ないが)画面の真ん中に箱があって、その前に置かれたキーボードで「あ」で始まる単語を入れるとそのアニメーションが再生されるという作品があった。「あめ」と打つと雨が降り、「あり」と打つと箱からゾロゾロとありが出てくる、といった具合だ。その場で思いつく単語をいろいろ打ってもちゃんとアニメーションが出てくるので、これどうやったの?と聞くと、ひたすら辞書の「あ」のページを見ながらアニメーションを作ったと言っていて、これは思いついても自分には出来ないなと感心したのを覚えている。(そういえば、雑誌「広告」編集長をやっていたYOYの小野さんも、J-WAVE Takram Radioに一緒に出た時に、学生時代から「とにかく誰よりもつくる」をポリシーにしてたと言っていた。)

    「プリンス・オブ・ペルシャ」のロトスコープも、ある意味そんな労を厭わない作業とゲームプログラミングの組み合わせで作られた作品だと言える。つくり始める前にどうにか手間を省く方法を考えがちな人間として、とにかく「厭わずつくる」ことの力を侮ってはいけないと改めて感じた。

    ちなみに、このメイキング動画をアップしていた作者Mechner氏の個人サイトもあり、メイキング本があるのを見つけて思わず購入した。後日手元に届いた本は、たくさんのスケッチやゲームが生まれるプロセスが綴られているだけでなく、ミニマルな表紙の装丁が凝っていて、ブックデザインとしても手元に置いておきたい本だった。

    https://www.instagram.com/p/C28hEkOSnVQ/

    インターネットは自分から動き出してみると、こんな過去の思い出との意外な再会や新しい発見があったりするのが面白いところである。

  • ライフコスト

    昨夜は御代田仲間の集まりに参加。風の新年会に居合わせたものの話せなかった人たちや、御代田や軽井沢周辺で間接的に繋がっているものの初めましての方々(Facebookの知り合いかも?にめちゃくちゃよく出てくる人たち)とも話してやっと繋がることができた。

    話題はコモンズ的な話になった。コミュニティで道具や場や知見を共有する。そうやってライフコストを下げることで、ただ稼ぐために働くのではない暮らしはつくれないか。でも完全に資本主義から逃れることは出来ないからやっぱりある程度稼ぐ必要はある。ちょうどいい資本主義はどういうバランスか。資本主義を少しだけ手放すことはできるか。

    移住する時にはやはりそういうことを考えた。東京の家賃を考えたら仮に収入が下がっても同じような生活はできるだろうとか。(別に仕事を辞めるわけではないが思考実験として。)

    移住してみて実際にそう思うこともある。エネルギーとしての薪も、運ぶ手段とチェーンソーと斧があれば貯木場に行ったり身近な物々交換で手に入るし、食べるための米も自分でつくることが出来る(これはまだちゃんとは実現してない)。DIYで家具を作れば家具屋さんでオーダーメイドするより材料費は1/10だ。確かにライフコストは下げられそうな気がする。

    ただ本当はこれをコストだけで考えてしまうのはちょっと違う気もする。お金をかけない分、手間と時間をかけている訳で、ライフコストを下げるというのは、言いたいことはとても共感するし、説明のためにはとてもわかりやすいものの、この考え方を突き詰めていくのもそれはそれでだんだんしんどくなるような気もする。「ライフコスト」という言い方は「生活費」というのとは(なんかかっこいいだけじゃなく)たぶん何か違うことを言おうとしていて、節約術みたいな話をしたい訳ではないはずだ。

    薪を割ったり、米を作ったり、家具を作ったりすることそれ自体が面白いし、それ自体が生きている感じがする、というのは実感としてある。ただ、その感覚も、そのことだけにどれくらい時間と労力をとられるかで変わるだろうとも思う。

    コモンズを成り立たせる経済的なバランス。でも、結局バランスだよね、で思考停止せず、「ちょうどいい」バランスにきちんと向き合っていきたいなと思った。その意味では、集まりに参加していた浅間コーラというクラフトコーラを作っている柳澤さんの作り過ぎない(そして地元でしか売らない)という話はとても興味深かった。

    ビジネスとしては実際はいろいろ大変なことはあるんだろうとは思いつつ、やはり前提としてまず価値になる何かをつくり、つくったものとその対価としてのお金のやり取りを通して地域やコミュニティの外に開いていることが大事なポイントで、ただそれを広げ過ぎないことで資本主義とのバランスを取ろうとしているように感じた。つくらないコモンズは続いていくのがとても難しいのかもしれない。

    そして、その集まりでも話したが、個人的にはこういうリアルなこと(地域のコモンズとか、ライフコストを下げる的なこととか)に、テクノロジーをどう使っていけるかにはとても興味がある。いわゆるシビックテックと言われるような領域にも関わる。ローカルな生活を成り立たせているインフラ、モビリティ、自治のDX、教育、、いろいろやってみたいことはあるが時間は有限で、今やっている仕事もとても面白いしやりがいもあり、とても全部は出来ない、、ということで結論はないが、少しずつ出来ることはやっていきたいとは思う。

    たぶんつづく。

  • 自由の相互承認

    先日の続き。哲学者で教育学者の苫野一徳さんによれば、そもそも、お互いがお互いの自由を認め合おうとする「自由の相互承認」は、人間同士がようやく近代になって辿り着いた根本原理であるという。

    自分は「自由」だとただナイーヴに主張し合うのではなく、相手が「自由」な存在であるということ、「自由」を欲する存在であるということを、まずはお互いに承認し合うこと。そしてその上で、互いの「自由」のあり方を調整し合うこと。これ以外に、凄惨な命の奪い合いを終わらせ、わたしたちが「自由」を手に入れる道はない。そうヘーゲルはいうのだ。
    (中略)
    ではわたしたちは、どうすれば「承認のための戦い」を終わらせ、自らの「自由」を獲得することができるだろうか? ヘーゲルによれば、その考え方は一つしかない。それが、先に述べた「自由の相互承認」の原理である〔原注:「自由の相互承認」という概念は、ヘーゲルの哲学を再構築した竹田青嗣によって定式化されたものである。(『人間的自由の条件ーヘーゲルとポストモダン思想』)〕。「自由の相互承認」、それは、わたしたち人間が共存するための、そして一人ひとりができるだけ十全に「自由」になるための、社会の根本原理なのだ。

    苫野一徳『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』

     「自由の相互承認」が社会の根本原理であるならば、脱人間中心的な考え方が問おうとしているのは、この「自由の相互承認」を(Black Lives Matterやジェンダー、マイノリティの問題をはじめまだまだ人間同士のそれもままならないなかで)人間「以外」にも拡張できるか?という問いである。

    (『コンヴィヴィアル・テクノロジー』第5章 人間と自然 より)


    この言葉を知るきっかけは、それこそコロナ以降の移住を考え始めた時期で、いくつかの候補の中で軽井沢周辺を調べていた時に、軽井沢の風越学園のドキュメンタリーを撮っている映像作家の知り合いの投稿を見かけたのがきっかけだった。結局我が家は風越学園には行っていないが、その根幹の思想にこの「自由の相互承認」という考え方があると書かれていて、苫野一徳さんがYoutubeで話している動画を見たりしながら、それこそ小学生でも理解できる概念でありながら、これはなかなか奥深いぞと思ったのを覚えている。

    そしてこの「自由の相互承認」という考え方は、『コンヴィヴィアル・テクノロジー』全体に通底している考え方の一つでもある。人類史全体として見れば、近代から現代にかけて人間同士については実はかなりの程度「自由の相互承認」は実現されてきたとも言え、それは希望でもある。が、これから先はどうか。再び『コンヴィヴィアル・テクノロジー』から第6章の冒頭を引用しよう。


     前章で「人間と自然」について考え、たどり着いたのは「自由の相互承認」をどこまで拡張するべきかという問いであり、「人間と自然」の関係の先に見えてきたのは「人間と人間」の関係であった。自分の自由のために他者の自由を奪うことなく、お互いの自由を認め合おうという「自由の相互承認」の概念は、現代においては(少なくとも理想としては)一般通念として共有されていると言っていいだろう。自分だけでなく、自分の家族だけでもなく、学校や仕事でつながる人たち、SNSでつながる人たち、地域でつながる人たち、同じ国の人たち、ひいては、人種や出生や能力にかかわらず地球に暮らすすべての人たちに、お互いの自由を奪わないかぎりにおいて自由に生きる権利がある、という想像力を少なくともわたしたちは持ち得ているのである。このことは、奪い合いの戦争を繰り返してきた人類の歴史を振り返れば決して当たり前のことではなく、現代社会がたどり着いたひとつの希望である。「わたし(I)」の自由から、「わたしたち(We)」の自由へ。そしてこの「わたしたち(We)」にどこの誰まで含めるのかという想像力が、家族や身近な仲間から世界中のあらゆる人、まだ生まれていない未来の人、さらには他の生き物や人工生命といった人間以外の存在へと拡張されてきた。そして、間違いなくテクノロジーの存在もそれに寄与してきたはずである。
     しかしながら、地球上の人口が増え続ける一方で、使える資源には限りがある。さらには人新世という言葉が表すように、人間の活動による自然環境の変化が、人間が生きるための環境に影響を与え始めてもいる。少なくともこれからもいままでのようなペースで資源を使い続けていくことが、いまを生きるすべての人たち、さらには未来の人たちの自由を奪うことになることは明らかになりつつある。もしすべての人が不自由なく生きられるほどの資源が未来永劫十分にあるなら、ある意味「自由の相互承認」はたやすい。「お互い好きにやろう」でいいのだ。しかし、拡張されていく「わたしたち(We)」に対して、現実には「わたしたち(We)」が生きるための環境や資源に限りがあり、必然的にお互いの自由は干渉し合い、「自由の相互承認」はどんどん難しくなっている。「お互い好きにやろう」とは言っていられなくなっているのである。

    (『コンヴィヴィアル・テクノロジー』第6章 人間と人間 より)


    コロナもまさに「お互い好きにやろう」とは言っていられない状況だったし、戦争や災害、そして気候変動や資源や食糧やエネルギーの問題もそうだろう。これからも「お互い好きにやっていく」ためにはどうしたらいいんだろう。

  • Think twice, bend once.

    スウェーデンのストックホルムを拠点に、シンセサイザーやサンプラーなどユニークでアイコニックなデザインの電子楽器やオーディオ機器などを多数リリースしているteenage engineering。

    https://teenage.engineering/

    そのプロダクトは、グラフィカルでファンクショナル、レトロでポップ、かっこいいけどユーモアがあって、音楽をつくるわけでもないのに無性に欲しくなる魅力がある。最近リリースされたサンプラーK.O.IIもプロダクトのロゴの下にカタカナで「サンプラー」と書いてあったり、Webサイトのヘッダにも小さく日本語が書かれていたり、日本のカルチャーの影響も受けているようだ。

    気になって調べていたら、ファウンダーJesper Kouthoofdの2018年のロングインタビューを見つけた。なかなか面白かったので気になったところをメモ。

    17歳からグラフィックデザインを学んだが、エンジニアリングの仕事に憧れ、Berghs School of Communicationでエンジニアリングを学んだ。

    父は建築家。スカンジナビアのデザインは退屈。Superstudio やArchigram が好き。

    TE設立前にやっていた広告の仕事でABSOLUT VODKAのために「Absolute Choir」というインスタレーションを制作。(※のちに商品化されるChoirの原型。)

    プロダクトデザインをする時に重要にしていることは「製品を一度見たらその絵が描けるか?」ということ。

    (デザインとは?と聞かれ)コミュニケーションが全て。誰が読んでも意味が通じることばを選ぶように、誰が見ても分かるようにデザインする。「美しいものを作ろう」という意識はない。しかし、完璧なコミュニケーションとして成立するデザインであれば、自ずから美しさを持つと信じている。

    「製品を一度見たらその絵が描けるか?」というプロダクトデザインポリシーはなかなか面白いが、確かに言われてみればなるほどその通りのデザインだ。

    ちなみに自分はミュージシャンでもサウンドデザイナーでもないので、(欲しくはなるが)電子楽器系のプロダクトは今のところ持っていない。ただ、数年前に仕事用のPCが必要になったときに、ちょうどリリースされたPCケースComputer-1を買ってみることにした。自分たちで使うためにデザインしたものを商品化したらしい。

    届いたのはペーパークラフトのように型抜きされた、フラットな数枚のアルミ板。ミシン目のようになっているところを自分で折り曲げて組み立てる方式だが、アルミなので一度折り曲げてしまうともう元に戻せない(無理に戻そうとすると折れてしまう)。これをユーザーにやらせるとはなかなかすごいなと思ったが、アルミ板が包まれていた紙に小さく書かれたメッセージに唸らされてしまった。

    Think twice, bend once.

    1回しか曲げられないから、2回考えてから曲げろというメッセージだ。さすが洒落が効いている。ユーザーが折る向きを間違えたらクレームになってもおかしくないようなところを、このコピーひとつでニヤリとさせられ、ファンになってしまう。まさに秀逸なコミュニケーションデザインだ。

    実際、組み立てるのはなかなか大変だったが(そこそこいいGPUを載せようとしたからだが、、)やはり他にはないデザインで気に入っている。

    teenage engineeringは今年のCESで話題になったAIデバイス Rabbit R1 のデザインも手掛けている。今後の動きも要注目だ。

  • わかるとつくる

    前回からの続き。そのワークショップから2年後の2017年、「情報環世界」というテーマで研究会をやるという企画に誘ってもらった。初台にあるICCの企画として、渡邊淳司さん、ドミニク・チェンさん、伊藤亜紗さん、塚田有那さんとわたし、5人のコアメンバーがさらに数人ずつに声をかけ20人くらいのメンバーで定期的にICCに集まった。各コアメンバー5人がテーマを持ち寄って、レクチャーとワークショップをやる10回シリーズで、正直最初はこの取り組みがどこに向かうのかよくわからないままスタートした感もあったが、ICCでのレクチャーやワークショップのあとにオペラシティ地下のHUBで毎回飲みながら話す時間も含めて、回を追うごとに集まるのが楽しみになっていく熱量のある会だった。

    情報環世界―身体とAIの間であそぶガイドブック』は、この研究会の成果をまとめた一冊だ。単に複数の著者の文章を集めたアンソロジーではなく、各章の著者が他の章にコメントを入れたりと、インタラクティブに進められた研究会のライブ感を感じてもらう工夫も盛り込まれている。編集したのは昨年末に急逝された塚田有那さん。難しそうなテーマを、巻頭のひらのりょうさんのまんがや佐藤亜沙美さんの凝ったブックデザインも含めて、やわらかく、でもあくまで内容は深くまとめられた素晴らしい仕事だと思う。あれから5年以上が経って、ますますこの時に議論していたことは社会的にも大事なテーマになってきているように感じていて、ちょうど有那さんから「今こそ情報環世界再び!」とメッセージをもらったのが最後のメッセージになってしまったこともあって、今年は再始動させたいと思う。このブログもそれに向けた準備みたいな部分もある。

    話を戻して、この研究会で僕が取り上げたテーマが「わかるとつくる」。ちょうど本が発売になるタイミングで書き始めたnoteにはこんなことを書いている。

    この本の中で、わたしは第3章「“わかる”と“つくる”の情報環世界——環世界間移動能力と創造性」を担当した。日々デザインやビジネスやエンジニアリングに関わる立場から、これまで関心をもってきたテーマとして“わかる”と“つくる”の関係に注目し、そもそも“わかる”とはどういうことか、“わかる”ことと“つくる”ことがどう関係しているのか、人が物事を理解することの本質とクリエイティビティの根源について考えてみた。

    ポストトゥルースと言われる時代、何が本当かわからない、簡単には白黒つけられない問題を正しく「理解」しないといけないとか、AIに負けない「創造性」を身につけないといけないなどと言われる昨今、そのためにどうすればいいかを考えるためには、まずは「理解」や「創造性」とは何なのかを考えたい、「環世界」という概念を通してそれを言語化してみたいと思ったのだ。

    今回、貴重な機会を得て、多様な視点をもつ研究会メンバーと語り合う時間やたくさんの素晴らしい本との出会いを通じて、自分なりに考えを整理することができた。ただし、この本はそれこそ何か単純な「わかった!」と思える結論を導いているわけではなく、むしろ「わからなさ」に向き合うための多様な視点を提供している本だ。「わからない」で済ますことも思考停止だが、「わかった!」もまた思考停止なのだ。

    前回書いたように、実は最初は「わかる」をテーマにしようと思っていたが、他のコアメンバーとテーマを持ち寄って話しているときに、デザインやエンジニアリングを仕事にしていることもあって「つくる」も一緒に考えたらどうかとアドバイスをもらった。確かに「わかる」だけを考えるのなら認知科学や脳科学の専門家の方が適任かもしれないし、振り返ると自分が「つくって」きたものも「わかる」をテーマにした仕事も多いことに気づいて、このふたつを両方考えてみることは自分らしい切り口かもしれないと思ったのだ。

    そんなわけで、特別何もつけてなかったこのブログのタイトルも、やはり「わかるとつくる」にしてみようかと思う。また気が変わるかもしれないが。