• 放し飼いの身体

    驚くべき言語能力を獲得したAIが次に向かうのはおそらく実世界。言語だけでなく、視覚や聴覚の入出力も扱えるようになってきたAIは実世界と繋がっていこうとするだろう。その領域をやってきたロボットや自動運転といった分野がAIによってどう変わるのか。その前に、今ロボットや自動運転の技術はどうなっているのか。

    そんなことを考えていた時に日本ロボット学会の気になるセミナーの案内を見つけて、どうせならと年会費を払って学会に入ってみることにした。そのセミナーも勉強になったのだが、その前に毎月送られてくる学会誌の、先日届いた最新号の特集『「文化」としてのロボット』の話。

    雑誌『広告』の「文化」特集で文化とテクノロジーについて寄稿した身としては読まないわけにはいかない。たくさんの積読の本を差し置いて、つい手に取って読み始めた。

    ジェンダー、ファッション、弱いロボット、人工生命、文学など、どのテーマも興味深いが、情報環世界でもご一緒した伊藤亜紗さんと物理リザバー計算の研究をされている中嶋浩平さんの「制御の外側で身体に出会うーロボットと障害」という対談がとても面白かったのでメモしておく。

    ファンクショナルな身体とコンスティチューショナルな身体
    思い通りにならないところにこそ身体の本質を見る
    身体が「こうすればいい」を勝手に見出していく
    できなかったことができるようになるには「体が先にゆく」必要がある
    桑田真澄に30回同じように投げてもらうとリリースポイントは14cmもずれるがボールは毎回同じところにいく
    唯一絶対の最適な投げ方があるわけではない
    体を適当に放し飼いできる能力が重要
    死んだ魚も流れに逆らってのぼっていく受動遊泳
    モーターもセンサもないのに坂道を二足歩行で下っていくPassive Dynamic Walker
    物理系をデザインして埋め込むと(エンボディメント)ロボットのボディにファンクションをアウトソースできる
    自分の身体じゃないものを身体の一部にする
    視覚障害者ランナーと伴奏者をつなぐロープ
    コンスティチューショナルなレイヤーでの自発性
    制御の外部に身体がいる
    どもるAI
    吃音の本人にとって言えるか言えないかは本人もわからないサイコロ状態
    量子コンピュータは実体と演算が切れていない
    量子コンピュータのノイズは量子コンピュータの身体
    タコ腕が計算に使える物理リザバーコンピューティング
    フィリピン沖に台風ができると大阪にいる患者さんの幻肢が痛み出す
    障害の世界は「助けてあげる」「助けてもらう」能動と受動が強固になりがち
    視覚障害者ランナーと伴奏者の関係は「共鳴」「引き込み合ってる」

    日本ロボット学会誌 VOL.42 特集:「文化」としてのロボット

    この組み合わせの対談を提案した亜紗さん流石だなあ。コンピューティングの世界の言葉と、身体的な世界の言葉がスリリングに交錯する対談だった。

    最近ちらほら耳にして気になっていた物理リザバーコンピューティングについては、中嶋浩平さんのこの動画が(数式はすっ飛ばしても)面白かった。死んだ魚の受動遊泳やタコ脚コンピュータも出てくる。

    普通、脳が計算して身体を制御していると考えがちだが、実は身体そのものも「計算」している。その時、身体や環境のやわらかさや複雑さが計算リソースやメモリになる。わたしたちは実はそうした制御の外にある「放し飼いの身体」とコンヴィヴィアルに生きている、と言えるのかもしれない。

  • たかが鍵、されど鍵

    はじめに断っておくと、これはたぶん誰の役にも立たない話である。

    家を建てる時に、玄関ドアを木製サッシの全面ガラスドアにすることにした。幸い森の中なので、玄関の前には木々があるだけ。外からの目を気にすることもないし、お店やカフェみたいな感じも悪くなく、暗くなりがちな玄関の土間が明るくなり、来客がドアを開ける前にわかるのも便利。玄関開けたら熊がいたなんてことも避けられる。(冗談じゃなく。)

    いいことづくめと思ったが、1つだけ、そんな普通じゃない仕様のドアにしたこともあって、鍵も特殊なのだ。調べてみると、ユーロロックなどと呼ばれる方式(ヨーロッパの家やホテルに行ったことがある人はわかるかもしれないが、鍵が360度以上クルクル回るタイプ)の鍵で、タテかヨコか90°しか回らない日本の一般的なサムターンではない。

    別にそれ自体は困らないと言えば困らないが、時代はスマートロック。東京で今まで使っていたスマートロックが使えない。ヨーロッパからユーロロックに対応したスマートロックを取り寄せることも考えたが、それはそれでゴツいものが多いし使い勝手も良くなさそう。

    そこで施工前にメーカーからロック本体部分だけを事前に送ってもらい、市販のスマートロックを3Dプリンタでカスタム出来ないかと試行錯誤。調べたところ、SESAMIというスマートロックが360度回転に対応していて、アプリの出来も良さげ。

    あとは3DプリンタでアダプタをつくればOK、と思ったがこれがなかなか厄介。ドアとの干渉を避けるために中心を微妙にずらしたり、物理鍵も使えないといけないので機構を工夫したり、もはや仕事(プロダクトの機構設計)みたいなことになりつつ、なんとか無事に動作するものができた。

    これで解決、と思ったのだが実はまだ解決してなかった。しばらく使っているとたまに設定がずれてしまう時がある。どうやら素早く手で一回転させた時に、逆回りで一回転したと認識してしまうことがあるようだ。メーカーに問い合わせてみると仕様上対応が難しいらしく、ゆっくり回すしか解決策がないという。(ちなみにSESAMIは社長さんの製品発表Youtubeが面白く、問い合わせの対応も親身で応援したくなるメーカーさんである。)

    さて、どうしたものか。いったんスマートロックを外してあーだこーだと対策を考えているうちに時は流れ、家族は物理鍵を使う生活に慣れてもはや何も言わなくなってきてしまった、、まずい、、

    たかが鍵、されど鍵。負けられない闘いがそこにはある。いやない。ないけどデザインエンジニアとしてはやはりどうにかしたい、、

    つづく。

  • 風の新年会

    週末は近くの小諸で開かれた「風の新年会」なるイベントに、御代田仲間の前村さんに前日誘われて、同じく御代田仲間の内沼さんと一緒に乗り合わせてほぼ飛び入りで参加。企画したのはこのブログをはじめるきっかけのところでも書いた徳谷柿次郎さんたち。(柿次郎さんのブログにも早速書かれてる。)

    温泉旅館をほぼ貸し切って、大広間で浴衣着てという昭和の宴会スタイルがとても新鮮。長野中心に全国から50人くらいの人が集まっていて、東京では出会えなかっただろう面白いことをやっている人とたくさん知り合えた。

    宴会もとにかく楽しかったけど、前半は能登地震の支援で何ができるかを話したりもした。直接被災した輪島や珠洲と繋がりがある人も多く、柿次郎さんたちのやってるジモコロは過去の災害時にもメディアとしての取り組みを積極的にやっていたりということもあって、現状の共有もしながら、例えば珪藻土の一大産地らしい珠洲の七輪を使ったチャリティイベントの輪を広げていくといった具体的なアイデアも出てきた。

    その後少し遅れてやってきた軽井沢「ほっちのロッヂ」の藤岡聡子さんからは被災地のさらにシビアな現実も教えてもらった。聡子さんたちをはじめいくつかの医療機関がチームを作って地震直後から現地に入って在宅医療や福祉介護が必要な人たちの支援にあたっていて、珠洲や輪島など被害が大きいエリアは本当にまだまだめちゃくちゃ大変な状況にあり、現地に入って帰ってくるスタッフのメンタルケアが必要になるような状況とのこと。高齢化や人口減少の最先端地域での災害。動けない人たちが残されている現状。

    このフォームから支援出来るので微力ながら継続的に支援していけたらと思う。(支援すると日々現地からのレポートが届く。)

    今後日本全体がますます高齢化し人口減少していく中での災害について改めて考えさせられたが、逆に少し外れれば被害の少なかったエリアは観光などで大打撃だったりもする。復興に向けた動きも同時に必要だ。

    能登半島地震で何が出来るか会議のあとは、久しぶりに小倉ヒラクくんと話せたのもよかった。この前書いたことにも繋がるけど、ルールなき世界でのコミュニケーションはどうあるべきか、情報環世界再始動に向けてのテーマが見えてきた気がする。

    大広間での宴会もいろんな出会いがあり。今年は米づくりをもう少し本格的にやろうとしていて(その話もここで書いていきたいが)、小諸で米づくりをしている清水さんにももっといろいろ話を聞きたいし、同じく小諸でお医者さんやりながら駅前でイタリアンバルを開こうとしている高桑さん、ザリガニで生計を立ててる?高橋さん、総務省から群馬県庁に来ていて社会的共通資本を語っていた田中さん、郡上からホラを吹きにきた?春樹さん(それぞれ紹介が雑ですいません、、ちなみに夏はこの会を郡上でやるらしい)などなど、御代田チームは泊まりじゃなかったのでちゃんと話せなかった人も多いけど、とにかくリアルな何かに関わっている面白い人たちがたくさんいるなあというのが印象的だった。

    会場の菱野温泉常盤館も、規模感も、大広間とラウンジとカラオケルームの動線も絶妙でちょうどいい空間と空気感。結局話に夢中で温泉入り損ねたけど近いからまた行こう。

    半ば強引に(笑)誘ってくれた前村さんに感謝。

  • まだここにいない人

     「サステナブル(持続可能な)」という言葉は、いまやあらゆるところで目にする言葉になったが、「Sustainable Development(持続可能な開発)」という用語が最初に使われ、SDGsの源流とも言われる1987年の「Our Common Future」というレポートによると、「サステナブル」とは、「将来の世代が彼らのニーズを満たす能力を損なうことなく、現在のニーズを満たす」こととされている。そこでフォーカスされているのは、「人間以外の存在」ではなく、あくまで「未来の人間」である。
     人種や出生や能力にかかわらず、あらゆる人間が生きたいように生きる権利を認めようとするところまで辿り着いた近代の人間社会の根本原理が「自由の相互承認」であるなら、脱人間中心主義は「自由の相互承認」の種を超えた拡張であり、サステナビリティは「自由の相互承認」の時間軸を超えた拡張である。人間中心主義を改めることや、地球のために、と考えることは、倫理的には理解できてもなかなか日々の行動原理とするのはハードルが高い。それよりも、あくまで「すべての人間」という枠の中に「未来の人間」も含めようという考え方のほうが、まずは現実的で受け入れやすいのではないだろうか。
     サステナブルとは、子どもたちやその先の孫たちの自由を奪わないこと。脱人間中心主義のように思考の枠を広げることと同時に、様々な議論や思想に振り回され過ぎず、素直に行動原理に取り入れられる基本的なことに改めて立ち返ってみることも大事なことだろう。
     つまるところ、「人間と自然」について考えることは「人間と人間」について考えることにつながるのである。

    (『コンヴィヴィアル・テクノロジー』第5章 人間と自然 より)


    この話を最初にどこで目にしたか忘れてしまったけど、サステナブルと言われると自然を守ろうとか、環境を守ろうというイメージがあるから、はっとさせられたのは覚えている。そうか、サステナブルってあくまで「まだここにいない人」も「わたしたち(We)」に入れて考えましょうってことなんだなと。

    ちょうど、同じIAMAS出身で、東京でIT起業などを経つつ今は岐阜で不動産業をやっている中原さんがFacebookで現実問題として地域社会での「未在の他者」との対話の難しさを語っていて確かにと思う。(ちなみに「未在の他者」という言葉は社会学者の大澤真幸さんの言葉らしい。)

    まだここにいない人を誰がどういう根拠で代理できるのか。そもそも代理すべきなのか。人が代理しないとしたら、どんなファクト(データ)や予測(シミュレーション)が意思決定の根拠になりうるか。

    いや、そもそもどちらかというと「まだここにいない」どころか「今ここにいる」人のあいだの「自由の相互承認」もままならなくなりつつあるような気も。。

    (ちなみに「自由の相互承認」というのは教育学者の苫野一徳さんの本で知った言葉だが、、長くなりそうなのでまた今度書くことにしよう。)

  • かげのダンスとVR

    前回からの続き。そんなことを考えながら、たんぽぽの家の人たちと定期的に議論を進めていくうちに、パフォーミングアーツを主体に活動しているメンバーとのコラボレーションが面白いんじゃないかという話になった。

    たんぽぽの家では、活動当初から演劇やダンスなどのパフォーミングアーツに取り組んでいて、2004年からはジャワ舞踊家の佐久間新さんと即興的なダンスに取り組み、2011年から定期的なプログラムとして「ひるのダンス」というプロジェクトが継続されていた。月に2回、佐久間さんとさまざまなテーマで人やものや環境との関係性をダンスを通して探る取り組みで、2年前からは「かげ」をテーマに、懐中電灯や音が鳴る物を使って即興のパフォーマンスに取り組んでいることを知り、ひとまずその様子を見学させてもらうことになった。

    時間になってホールにメンバーが集まると、特に佐久間さんから説明があるわけでもなく、稽古とも遊びともつかない何かが緩やかに展開していく。最初はそれぞれが好き勝手に動いているようで、次第に誰かの何かの動きに周りが呼応するような流れが自然と出来ていく。そして「かげのダンス」と言われるように、暗い空間で懐中電灯を振り回したり、頭にヘッドライトをつけて首を振ることで、例えば手があまり動かなくても影はダイナミックに動くのがとても面白い。

    この「かげのダンス」をインスピレーションに、VRでもかげをテーマに何か出来ないか、と考えた。これはゲームではなく、あくまで舞台装置のような役割。現実とはまた違う形で「かげ」をVRで表現してみることで、どんな動きが生まれるか。そんな実験をやりながら出来たのが昨年の「CAST」という作品だった。

    詳細は以下にレポートがある。

    https://art-well-being.site/archive/48/

    ちなみに今年も引き続きこのプロジェクトに関わっていて、今年は「水」をテーマにすることになっている。先日もトライアルのために奈良を訪れていたが、そのことはまた改めて。

  • 表現とケアとテクノロジー

    前回からの続き。表現とケアとテクノロジーのこれから。ゴールのある普段のクライアントワークと違って、まだわからないからこそ「これから」を探索するようなプロジェクトなので、あまりはじめに考え過ぎず、直感的に可能性を感じるテクノロジーを選んで、まずは何かやってみることからはじめることにした。

    そこで選んだテクノロジーはVR。表現とケアとVRはどう結びつくか。これまでこうした障がいやケアの領域に関わったことがなかったのもあり、まずはたんぽぽの家のメンバーの皆さんからどんなリアクションがあるのか、まずは本格的に作り始める前に簡単なVRコンテンツを体験してもらうところから始めた。

    まず何を体験してもらおうと考えてやってみたのは、たんぽぽの家の施設をiPhoneのLIDARを使って3Dスキャンして、VRの中で見て回れるコンテンツ。まずはヘッドセットつけても自分たちがいるよく知っている場所にいる。そこからバーチャルの世界に入っていくのがいいのかなと。

    これは思った以上によかったというか、体験してもらった方のコメントで「怖くなかった」というのがあって。ジェットコースターとか高いところから落ちるとか、そういうのかと思ったと。確かに「VRならでは」的なコンテンツとしてテレビのレポーターがヘッドセットつけて絶叫してるみたいな絵は撮られがちかもしれなくて、そういうものではないというのを伝えられてよかったし、皆さん楽しんでもらえて、何か出来そうな感触が得られた。

    と同時に思ったのは、「ケアとテクノロジー」という時に、テクノロジーがケアに何をもたらすかということを考えがちだけれども、逆にケアがテクノロジーに何をもたらすのかという視点が大事だなということ。

    まず、まだまだVRは操作が難しい。去年はQuest2、今年はQuest3を使っているが、数年前からすればユーザー体験は格段に洗練されてスムーズになっているし、アクセシビリティも考慮されてはいるものの、やはりユーザーとして「健常者」が想定されている部分は多くある。コントローラはボタンやトリガーがたくさんついているし、バーチャル空間の中でメニューが現れてボタンを押して、といった操作も物理的な手がかりがないので繊細なコントロールが必要。ジェスチャー認識も手がうまく動かせないとなかなか認識してくれない。多様なユーザーに使ってもらうことで、テクノロジーの側ももっと可能性を広げることができると思う。

    そして、たんぽぽの家のメンバーの皆さんはそれぞれ表現者でもあり、表現する行為がテクノロジーの可能性を開いてくれるのではないかとということもある。何かをデザインするとき、当然ユーザーのことを考えるけど、どうしても作る側はサービスを提供する側、ユーザーは使う側でありサービスを提供される側になる。今回も、気をつけないとたんぽぽの家の人たちのために何かを提供するという風に考えてしまいそうになるので、そうではなく一緒に何かをつくっていくパートナーとして、コラボレーションしたことで何か面白いものが生まれる、そんな関係性になるとよいと思った。

    つづく

  • たんぽぽの家

    去年から奈良にあるたんぽぽの家の「Art for Wellbeing 表現とケアとテクノロジーのこれから」というプロジェクトに継続的に関わっている。

    https://art-well-being.site/

    サイトの説明をそのまま引用すると「表現すること、表現に触れること、表現しあうことは、よりよく生きていくことに必要だとわたしたちは考えています。だからこそ、病気や事故、加齢、障害の重度化など心身の状態がどのように変化しても、さまざまな道具や技法とともに、自由に創作をはじめることや、表現を継続できる方法を見つけていく」プロジェクトである。

    まず、たんぽぽの家について書いておくと、おそらく障害者支援や福祉に関わる人なら知らない人はいないんじゃないかなという50年の歴史がある施設であり、市民活動であり、アートプロジェクトを中心にとにかくいろんなことをやっているすごいところである。

    https://tanpoponoye.org/

    一昨年はじめて訪れた、たんぽぽの家の拠点である奈良のアートセンターHANAは、絵画や立体作品などビジュアルアーツを制作するアトリエと展示するギャラリー、演劇やダンスなどパフォーミングアーツに取り組むシアターにもなるホール、カフェやショップもあり、想像していた3倍くらいの規模の施設だった。

    さらに同じ奈良の香芝には、GoodJob!Centerという拠点もあり、HANAがアートの拠点とすればこちらはどちらかと言えばデザインの拠点という感じで、オリジナルマスコットとして人気のGood Dogというホットドッグ犬?の張子の置物シリーズなどオリジナルデザインの商品開発や制作を行っていて、こちらも行ってみると3Dプリンターがたくさん並んだりしていて(張子の骨組みなどを作るらしい)、新しいテクノロジーも当たり前のようにいい具合に使われている。

    https://goodjobcenter.com/

    この2つの場を中心にとにかく同時進行でいろんな面白そうなプロジェクトが動いていて、どうやってこれだけのプロジェクトを日々動かしているんだろうという感じ。

    一昨年インクルーシブデザインをテーマにしたシンポジウムに登壇したこともきっかけになって、母校IAMASの小林茂さんからのお誘いで参加することになった。

    「表現とケアとテクノロジー」というお題しか決まっていないくらいの段階だったが、すでに僕以外に徳井直生さんがAIを、渡邊淳司さんが触覚再現技術を使った取り組みをされていて、それとは違ったアプローチを考えることになった。

    つづく

  • 自分でつくる

    年末年始はDIYに明け暮れていた。

    (その1)https://www.instagram.com/p/C2CW53nSf5d/
    (その2)https://www.instagram.com/p/C2C08GfSB9d/
    (その3)https://www.instagram.com/p/C2C4x2DS3T3/

    御代田に建てた家をエルデコに取材していただいたことがある。撮影だけでなく、設計をお願いした友人の建築家upsetters architects岡部さんと一緒に、編集者の山田泰巨さんに家づくりの話をさせてもらった。

    https://www.instagram.com/p/CiPpFfnPvLh/

    改めて読み返していたら、その記事のタイトルは

    家づくりの余地を残し 暮らしに近いものづくりに挑む
    新しい技術と自らの手でアップデートする家づくりとは

    とあって、意識してなかったけどまさにそれやってるなあという感じがする。

    元々子どもの頃から図工が好きで、東京に住んでいる時もいろいろつくったりしてはいたものの、長野に移住してまず扱う道具が変わった。

    丸ノコやトリマーと言った東京のマンションでは流石に近所迷惑な本格的な電動工具が使えるようになると、出来ることが全然違ってくる。

    そして今はYoutubeのおかげでいろんなノウハウも共有されていて、やろうと思えば自分でつくれるものは確実に増えている。

    気に入ってよく自作している木口オークの突板も、よく見かける定番の仕上げだが、そもそも自分で出来るという発想がなかった。最初は御代田のクリエイターコミュニティの中でダイニングテーブルを家具屋さんにサイズオーダーしたという話から、選ぶじゃなく作る発想になり、さらにニセコ繋がりで知り合った小屋づくりを中心に活動されているyomogiya中村さんのYoutubeでやり方が紹介されていたりして、あれ自分でつくれるんだということに気付かされた。そういう発想でいろいろ調べるといろんなやり方が紹介されていてこれはなんとか出来そうだなとなっていく。

    ちなみにyomogiyaさんのYoutube、動画も淡々と落ち着いていてわかりやすくとてもよい。手がけられる仕事も素敵。昨年夏ニセコに行った時は久しぶりに会いに行って小屋を見せてもらった。(いつか小屋も建てたい。。)

    さて、人間不思議なもので、アスリートの世界で100m10秒で走れるとわかるとみんなどんどん10秒の壁を越え始めるみたいに、出来ることがわかると出来るようになるという部分がある。もちろん環境も含めてみんなが10秒で走れる訳ではないけど。

    さらに言うと、仕事柄CADや3Dプリンターも扱えるので、すべて木工だけでなんとかすることに拘らず、穴あけの治具や細かいパーツはCADで設計して3Dプリンターでつくることもできる。まさに「新しい技術と自らの手で」という感じ。

    ちなみに家づくりは2年住んでみても、こうしておけばよかったみたいなこともなくとてもとても満足している。それはまさに取材してもらった記事で書かれているように、自分でできることとのバランスを見極めながら、こちらも思ったことは何でも言い、でもその上でプロとしての提案を信じるという、建築家の岡部さんとお互いに信頼がある中でこそ出来たことだと思う。そんな人が近くにいたことや、その後の建築価格高騰などのタイミングもギリギリかわせたこととか、そういう縁やタイミングのおかげで、ほんとうにありがたいことだ。

    https://upsetters.jp/

  • 敷居を低く

    noteに何か書く時は、読む人にそれなりに新しい視点を提供できたり、話としてもまとまった文章を書こうとしてしまうので、ここには出来るだけ練りすぎない文章を残したいと始めてみたものの、早くも書くのに時間をかけ過ぎそうな気配がするので、ハードルを上げないルールをいくつか掲げておこう。

    1. オチがなくてよい

    いい締めが思い浮かばなくて下書きが溜まるので、結論なくても、収まり悪くてもよいことにする。

    2. 話が終わらなくてもよい

    長い話も下書きに溜まりそうなので、つづくとしてとりあえず公開することにする。なお実際につづかなくてもよいことにする。

    3. 短くてもよい

    短い文章でも毎日何かは書くことにする。

    4. 後から書き直してもよい

    しれっと書き直してよいことにする。あとから修正出来ないSNSとは違うのでできること。

    5. 投稿日も多少いじってもよい

    日付またいでも1日2日遅れても、投稿日は最初に書こうと思った時に修正していいことにする。これも自分のサイトだからできること。

    ひとまずこんなところかなあ。さて、どのくらい続くことやら。。

  • よかれの総体

    大きな災害が起こって、いつものルールや答えが適用できない状態に陥った時、人はそれぞれの考えや判断で行動をするしかなくなる。そこではいろんなことが起こる。状況も刻々と変わり、昨日必要だったことが今日はもう必要でなくなることもあるかもしれないし、その逆も。

    熊本地震の時、直後に現地入りしたボランティア団体が寄付を呼びかけていたのだが、少し調べると過去の災害時に被災地でトラブルを起こしたことがある団体だという情報が入ってきて、それをシェアしていたとある方の投稿に注意喚起するようなレスをつけたことがある。

    地元ということもあってよかれと思って書いたわけだが、実は直後にその方(その方も地元の大先輩で影響力もある方)からDMでお叱りを受けた。その投稿がどれだけの人の行動にブレーキをかけることになるかわかって書いてるかと。いつ起こるかわからない地震のような災害の時に、本当に直後に現地に入るって普通に考えたらまず難しいし、ちょっとでも慎重に後先考えてたらできないこと。それくらいの瞬発力のある団体だといろんな意味で慎重さを欠く言動はあるかもしれないが、そういう人の存在も必要なんじゃないかと。というか、そもそも過去にトラブルがあったというその情報は本当に確実な情報かと。

    絶対の正解はないが、まずそうやって指摘をしてもらったことがありがたかった。だんだん歳を重ねるとそうやって叱ってくれる人ってどんどんいなくなる。自分も周りにそういうことをなかなかできないし、貴重な時間を割いてエネルギーを使って指摘していただいたことに恐縮しつつ、今でも本当に感謝していて、考えを改めさせられた経験としてよく思い出す。

    今回の能登地震でも、無鉄砲に現地に向かうボランティアが批判されている。確かに今回は特にもともとアクセスのよくないエリアに広範に渡って被害があり渋滞が深刻な問題になってしまっているので、しばらくは個人で現地に向かうのは避けるべきだし、実際に現地に行って邪魔だったり迷惑なだけになってしまっている人もいるようだ。

    でも地震が起きて直後から道路がそこまでの状況だと気づけたか。すぐに動き出した人を全部否定することはやはり出来ないかもしれないとも思う。もちろんSNSで現地に行くなと呼びかける人もいていいし、それに限らず、冷静に分析する人も、議論する人も、黙って寄付する人も、政治を批判する人も、それぞれがよかれと思ってそう行動しているのなら、その総体として起きていることは、全体として見れば今このタイミングでの「よかれの総体」はそういうことだと受け入れるしかないんじゃないかともどこかで思う。

    ただしこれは何もしなくて現状のままでいいというのとは違う。自分のよかれと他人のよかれが食い違う時に、その衝突や摩擦にどう折り合いをつけるのか、他人のよかれを否定するのではなく(くどいがそういう人もいていい)少なくとも自分は、みんながそれぞれのよかれで行動した時に総体としてよい方向に向かうにはどうしたらいいんだろうということを考えていた。

    いのちに関わる話だし、自分が当事者になったらまた違うことを思うかもしれないが、いまこのタイミングで考えてたことをここには残しておこうと思う。

    誤解を恐れずに言えば、テロや戦争も、ある意味でそれぞれのよかれの衝突だと言えなくもない。唯一絶対的なよかれが存在するわけではない。それぞれがよかれと思って行動するその総体が、自分にとってよかれに向かうことを考えながら、結局は自分なりのよかれを行動に移していくのみである。

    「よかれ」は「よくあれ」だから、元の言葉は「よくある」、つまりいわゆる「ウェルビーイング」にも繋がる話である。「よくある」ってなんだろう。