久しぶりに東大本郷キャンパスへ。東大とソニーによる「越境的未来共創社会連携講座(Creative Futurists Initiative)」のキックオフシンポジウムに参加。
講座名にもあるように、シンポジウムも専門性の「越境」がテーマだった。前半は実際にこの講座に関わられる方々のお話し(中心となって進められる筧さん、テクノロジーに潜むバイアスを研究する田中東子先生、戦争や災害のデジタルアーカイブ渡邉英徳先生、デフレーミング戦略高木聡一郎先生、ソニーサステナビリティ推進部からシッピー光さん)、後半はまさに越境を体現されてきた方々による基調講演とパネルディスカッション(ソニーCSL北野宏明さん、僕の師匠である山中俊治さん、林香里先生、ソニー戸村朝子さん)と盛りだくさんだったが、個人的に印象に残ったのは、東大副学長林香里先生の、工学と人文社会学の越境についての言葉だった。
メディア・社会学研究者として、工学の先生方とお話しをしていて、工学の先生方は、自分の開発しているテクノロジーが「よいことだ」とかなり確信をお持ちの先生が多いんです。他方で、人文社会系の研究者は、特に近代、「人類は大変悪いことをした、大変間違ったことをした」という深い反省の中に生きているんです。だから自分がやっている研究さえも、これは正しい道なんだろうかと常に悩み、このまま進んでいいのかもわからなくなるようなところがある。
(工学系の)非常に楽観的なテクノロジーへの感覚と、(人文系の)非常に悲観的な近代の歴史をこの21世紀にどうやって融合して、越境的未来の共創していくかというところに立っていると思います。
もちろんすべてにこの図式が当てはまるわけではないが、そう言われてみるとデザインエンジニアとして自分がやっていることも、デザインとエンジニアリングの越境ではあるのだが、実はどちらも「何かをよくする」といった楽観的でポジティブなマインドが根底にはあり、それはある種工学系のバイアスなのかもしれないと気付かされた。(デザイナーとエンジニアという)振り子を振っているようで、振れていない振り子もあるというか。
近年、デザインの領域でもクリティカルデザインやデザイン人類学が注目されたり、テクノロジーの領域でも、AI倫理や技術哲学など人文社会学的視点が取り入れられつつあることの背景に、こうした根底のマインドの違いがあるというのはもっと意識されてもいいのかもしれない。
とはいえ、Creative Confidenceという言葉があるように、何かをつくるときには、ある種の楽観性や根拠のない自信がないと進められないところもある。
シンポジウムの中で、北野さんは(共創するにしても)一人の人間の中に越境性をもつことは必須だといい、山中さんは、ただし越境する複数の視点を同時に持つことはできず、だからこそ振り子をふるように行ったり来たりする必要があるとも話していた。(Takramでも昔から振り子のメタファーはよく使う。)
悲観的批評と楽観的創造にも同じことが言えるんじゃないだろうか。楽観と悲観を同時に存在させようとするとたぶん何もできなくなる。とはいえテクノロジーもアートもデザインも楽観だけで進んでいい時代でもなくなりつつある。楽観と悲観の振り子をどんなタイミングで振るのかが「越境的未来共創」の鍵なのかもしれない。
もう一つ、今回の社会連携講座のパートナーであるソニーのパーパス「クリエイティビティとテクノロジーの力で世界を感動で満たす」に「感動」という言葉が入っていることも大事なポイントだと思った。個人的に繋がりのあるソニーの方々にも、どんな立場の方であれ文化や創造性のような部分を大事にしていると感じることが多い。大企業ほど、いわゆるSDGs的な(何か言っているようで何も言っていないような)優等生的なパーパスになりがちな中で、こうした言葉を入れることはとてもユニークなところだと思う。今回のテクノロジーとアートとデザインの越境が、課題と解決だけでなく「感動」に繋がることも期待したい。