• はじめる動機、つづける動機

    誰しも自らすすんでやりたくなること、モチベーションが自然と生まれてくることがあるんじゃないだろうか。

    そうしたモチベーションのもちようは人それぞれであり、チームで何かをするときには、お互いのタイプの違いを知っておくとよい。仕事に限らず、目標と現状にギャップがあるときは何かを変える必要がある(環境が整っていなければ環境を整えるとか、スキルが足りなければスキルを磨くとか)が、性格や性分のようになかなか変えられないものもあって、それは無理に変えようとせず、それぞれに合ったやり方をした方がよく、その一つがこうしたモチベーションのタイプだという。Takramで1on1を始めるときにcoachedさんにサポートしてもらってこうしたことを教えてもらったのだが、そこで知ったのが 「マクレランドの欲求理論」をベースにした4つのモチベーションタイプだ。

    この理論によると、人間の行動の動機づけに影響を与える欲求には次のようなものがあるらしい。

    達成欲求(Need for Achievement)
    高い目標を設定し、それを達成したいという欲求。挑戦を好み、達成感や成功を重視する。何かを達成することにモチベーションを感じるタイプ。

    権力欲求(Need for Power)
    他者に影響を与えたいという欲求。影響力を持つことで目標を実現しようとする。責任ある地位や影響力をもつことにモチベーションを感じるタイプ。

    親和欲求(Need for Affiliation)
    他者と良好な関係を築きたいという欲求。調和や受け入れを求め、友好関係を重視する。他者に協力することにモチベーションを感じるタイプ。

    回避欲求(Need for Avoidance)
    困難や失敗から逃れたいという欲求。ストレスやリスクを避け、安全な状態を維持することにモチベーションを感じるタイプ。

    こうした性格診断はどれか一つに当てはまるということではなく、誰しも持っているが強弱があるというものだと思うが、診断テストをしたら確か自分は親和欲求が強い傾向があり、なるほどその道ではよく知られた理論というだけあって納得感があった。

    先日、とある会話の中でこの話になったのだが、この4つに当てはまらない「探求欲求」みたいなものもあるのではと言われ、確かに思った。達成にもやや近いが、達成できなくても探求自体が動機づけになることはありそうだ。上に付け加えるなら、

    探求欲求(Need for Exploration)
    新しい発見や経験をしたいという欲求。好奇心が強く変化を求め、未知の領域を探ることにモチベーションを感じるタイプ。

    といったところか。

    さらに考えていて、行動には、はじめる動機とつづける動機があるのではないかということに思い至った。

    自分の場合、常に探求したい何かがあるかと言われると実はそこまででもなくて、何かをはじめるときには、クライアントだったり、家族や友人だったり、誰かのためになるとか誰かが喜んでくれるというモチベーションが必要なのだ。

    ただいったん何かをはじめると、ここはもっとよくできるかもとか、他に方法はないかとか、可能性の探求がより強いモチベーションになっている気がするのだ。

    そういえば、自宅のすべり出し窓につける網戸をDIYしていて、はじめた動機は家族に喜ばれるためだった気がするが、探求モードに入ってしまって未だに試作改良を重ねていて必要な窓に全部付けられていなくて家族にやや呆れられている。

    仕事で考えると、まさに今やっているような仕事、つまりクライアントワークであり、なおかつ誰もまだ正解がわからないようなプロジェクトに関わることが自分に向いているんだなということに改めて気付かされた。クライアントの期待に応えたいという親和モチベーションではじめられて、さらに誰にとっても未知の領域への探求モチベーションでつづけられるのだから。もちろん、さすがに仕事では納期や依頼内容には応えた上で、あくまで”Over Deliver”として探求するように心がけているが。

    はじめる動機とつづける動機をわけて考えてみると、より自分の性格や性分にあった物事の進め方ができるようになるかもしれない。

  • 道なき道を進む

    今日は、きたもっくの福嶋誠さんに北軽井沢で展開されている事業を案内してもらった。いつもいろいろプロジェクトをご一緒しているミュージシャン/サウンドエンジニアで北軽井沢にもスタジオをもって活動されている松井敬治さんの紹介で。

    ルオムの森でランチをしたあと、キャンプ場SweetGlassにはじまり、宿泊型ミーティング施設TAKIVIVA、山の手入れから伐採、薪の乾燥、製材、養蜂まで、山の循環産業を目指す「あさまのぶんぶん」の工場、さらにまだ構想中のいくつかの拠点などを見せていただく。北軽井沢は同じ浅間山麓でありながら軽井沢や御代田とはまたちょっと違うスケール感と風景で面白い。

    福嶋さんのお話は、浅間山という圧倒的な自然の力を前にした「自然に従う生き方」、地域に根ざした新産業をつくるという「地域主体方法論」という考え方に共感するし、90年代に地元北軽井沢に戻って手探りでキャンプ場を始めたときの話も、最初はいくら木を植えても枯れてしまい植木屋さんもお手上げ状態の中でダメ元で山から樹種を選ばず雑多に持ってきたら定着したという話や、「人が居続けられる場づくり」を軸に展開されてきた事業の話など、どれもとても興味深かった。(TAKIVIVAにも飾られていた2021年にグッドデザイン賞金賞を受賞したときの事業の全体像を描いた絵がわかりやすい。)

    そうした実践をこの規模で動かされているのもすごいのだけど、福嶋さんご本人のピュアでナチュラルな人柄も魅力的。福嶋さんのパジェロに乗せてもらいながら、最後は牧草地のある山の方まで案内していただいたのだが、ちょっと上の方まで上がってみますか、とおもむろに牧草地を進んでいく福嶋さん。これまでも何度もスタックしたり横転したりしたことがあると笑い話をしながら進んでいったら、最後は本当に溝にタイヤがはまりスタックしたり(笑)。

    人生だけでなく、文字通り(時にはスタックしながら)「道なき道を進む」姿を目の前でみせていただいた、記憶に残る1日だった(笑)。

    福嶋さんのお話は、ウェブの記事や僕も出演させてもらった山水郷チャンネルでもいろいろされている。地域主体方法論も改めてしっかり読んでみたい。

  • リテラシー

    たまに息子と風呂に入りながら話すのが面白い。中2になってほとんど体は大人サイズになってきて家の風呂ではもはや窮屈だが、それでもスマホもネットもなく、ただ話をするしかない時間がいい。

    昨夜は息子が、テスト前で勉強した方がいいのはわかっているけど、なかなかやる気が起きないと言う。

    最近はVRChatでアバターや部屋をカスタマイズするためにDiscordで友だちと話しながら Unityをいじるのが難しいけど楽しいらしく、ついついもうすぐテストなのにUnityを立ち上げちゃうと。

    いいなぁ、わかるなぁ。ずっとやってたいよねぇ。そういう時は好きなだけやったらいいよと言いたい気もするが、たしかにテスト期間くらいはテスト勉強やった方がいいかもなあとも思う。(というか、そもそも自分で勉強した方がいいと思ってるだけでも感心する。)

    なんで勉強した方がいい気がするんだろうねぇ、でもなんでやりたくないんだろうねぇ、、と一緒に考えてみる。

    いろいろ話していて、やりたいかやりたくないか、もしくは好きかと嫌いかとは別に、ラクか大変か、イージーモードかハードモードかもあるねという話になった。

    やりたくないをやりたいにする、もしくは嫌いを好きにするのは、どうやったらいいかわからない感じがするけど、大変なことをラクにする、ハードモードをイージーモードにするのは、まだ少しできそうな感じがする。そうすると「やりたい/やりたくない」「ラク/大変」の組み合わせが4つ出来る。

    「やりたくないし大変なこと」をやるのは到底無理な感じがするけど、「やりたくないけどラクなこと」ならまだ出来る感じがするし、「やりたいけど大変なこと」は頑張れるかもしれないけど、それが「やりたいしラクなこと」になったら最高だよねと。

    学校の勉強は、大変なことがラクになるためにやるのかもしれない。じゃあ具体的には何がラクになるんだろう。一つあるとしたら他の人と分かりあえるのがラクになるんじゃないかなあ。英語が出来たら英語を話す人と分かりあうのがラクになるし、数学とか理科が出来たら理系の人と話が通じたり、地理で九州のこと知ってると九州の人と仲良くなれるかもしれないよね。

    「リテラシー」ってそういうことなんじゃないかな。(ちなみに最近は学校でもリテラシーという言葉が出てくるらしく、前にリテラシーって何?と聞かれたことがある。)自分がやりたいことをやるためには必要なくても、分かりあえる人が増えると面白いし、そうしてると自分も思わぬことに興味もったり、思わぬやりたいことも見つかるかもしれない。

    でもなあ、UnityでVRChatのアバターとか部屋をつくりたいってモチベーションは応援したいんだよなあ。何かつくりたいと思えるってすごいことだと思うんだよねえ。でもテスト前だしねえ、難しいねえ。

    そんな結論のない会話をした。

    「リテラシー(literacy)」の語源はラテン語の「literatus(文字を知っている)」という意味の言葉らしい。「リテラシー」=「読み書きできる能力」と説明されたりするが、いわゆる「日本語」「英語」のような文字通りの「文字」だけじゃなく、専門分野にはその専門分野の「文字」があるし、文化にもその文化の「文字」があり、それを知っていることが「リテラシー」なのだろう。

    さらに考えると、誰かと分かりあえることと誰かに何かできることも違い、それが「コンピテンシー」=「実行する能力/行動する能力」ということになるのだろう。

    このブログのタイトルで言えば、「わかる=リテラシー」と「つくる=コンピテンシー」ということになるのかな。

    コンピテンシーという意味では、Unityいじり倒してる方がいいかもしれないし、とはいえリテラシーも大事だと思うし、やっぱり両方大事だなあ。

  • Garbage in, garbage out

    週末は移住した御代田のコワーキングスペースGokalabでトークイベントだった。

    Gokalabは、メンバーを「研究員」と呼んで、今回のような勉強会を開催したりと、単なるコワーキングスペースに留まらないユニークな場である。

    今回『コンヴィヴィアル・テクノロジー』を読んでオファーいただいた倉嶌洋輔さんもGokalab研究員で、企業にAI導入のサポートや研修などをされているAIコンサルタント。『AI時代のキャリア生存戦略』という本を書かれているということもあってAIと仕事の話を中心にしつつ、子育て世代の方も多いということで、教育についてもテーマに加えましょうということになった。

    僕の本は、AIに限らないテクノロジー全般、道具と人間の関わりについて考えていて、今回もまずこれまでの仕事を紹介したあといつものように、不足と過剰の二つの分水嶺の間に留まる「ちょうどいい道具」とは?そのための「6つの問い」とは?といったイントロをしつつ、(きっと明日から仕事で使えるような話は倉嶌さんがしてくださるだろうと思ったので)なるべく具体例としては仕事以外の話を紹介することにした。

    最初はリサーチやインプットについての話題で、いきなり唐突だったが、たまたま最近の例として、僕が以前からフォローしている量子物理学者の方の投稿がわからな過ぎてChatGPTに聞いてみた話を紹介した。詳細は省くが、一見1ミリも意味がわからないようなことも、「分かりたい」という気持ちがあれば、AIがなんとかその間を埋めてくれるのがよいところである。

    次に、倉嶌さんからコンピュータサイエンスでよく使われる「Garbage in, garbage out」、つまり入力の質が出力の質を決めるという話があり、これもちょうど最近息子の宿題でChatGPTを使ってみた話をした。

    息子は最近中学の国語の授業で枕草子をやっていて、自分が身の回りで趣き深いと感じることを枕草子風に表現してみるという宿題が出たという。

    そこで、息子は「空港で飛行機が次々に飛び立っていくところ」が思い浮かんだらしく、話しながら枕草子風にするとどうなるかChatGPTに聞いてみようということになった。

    まずそもそも、飛行機が次々に飛び立つ様子を枕草子の情景に選ぶセンスがとても面白く、もうその入力の時点ですでにいいので出力も面白いものになる。(ちなみに息子は結局それも参考にしつつ自分なりの言葉で書いていた。)

    また、ChatGPTのようなLLMは、その仕組みから入力と出力の関係があいまいでもうまくその間を繋ぐことが得意で、簡単な例として、言葉を天気の絵文字で表すという例を紹介した。

    雨、晴れ、薄曇り、小雨、、といった多様な表現を限られた天気の絵文字のどれかに当てはめられることはもちろんだが、例えば、「涙」なら🌧(雨)に、「楽しい」なら🌞(太陽)に、「夢」なら🌌(星)にといった具合に、どんな表現でも一番相応しい絵文字に当てはめてくれるのだ。(これをデータベースと検索で実現しようとしたらかなり大変である。)

    さらにその応用例として、以前作ってみた御代田町ゴミ出しGPTの話をした。いつまで経ってもゴミ出しルールをなかなか覚えられないので、ゴミ出しの質問に答えてくれる自分用のChatGPTを作ったのだ。

    元々御代田町にはオープンデータを使ったゴミチェッカーというページがあり、そのデータを学習させることで分別方法やゴミ出しの日を教えてくれるAIである。「次の可燃ゴミの日は?」という質問はもちろん、「梱包材は?」と聞けば素材毎の出し方を教えてくれ、「丸ノコの刃」なら刃を包んで刃物と表記、といった注意もしてくれる。もちろん100%正しいとは言い切れないが自分で作って使う分には十分である。

    ちなみに、「これがほんとのGarbage in, garbage out」というオチを言いそびれたことが悔やまれる、、

    他にもいろんな話をしたが、結局今のところ生成AIも、やりたいことや向かいたい方向にある何かと現状の間を埋めてくれる道具の一つであり、仕事だろうと宿題だろうと、使うモチベーションが自分にあって、使えるのであれば使えばいいと思う。

    もちろん、新しい道具は何に使えるのかは使ってみないとわからないし、中身の仕組みも知っている方が使い道の発想も生まれるから、何事も学んでみたり使ってみたり作ってみたりするのはおすすめではある(が、まあそれも自分がそういうことに興味があって好きだからだとも思う。)

    行き過ぎについて言えば、社会としてはAIの倫理やルールを議論することは重要だが、ひとりひとりの人間の立場としては、問うべきは「人間を思考停止させないか」ではなく「自分が思考停止していないか」である。

    「10km続く道があって、そこにAIという自転車があるなら乗った方がいい」という倉嶌さんの例え話はわかりやすいし共感する一方で、本当はそう言われたから使うというのは、それこそ思考停止である。「10km先には何があるのか?」「どうして10km先に行きたいのか?」を考えてみることが大事だと思う。

  • リスタート

    2024年も6月になった。4月に書いていたように、5月は田んぼの作業と電気工事士の試験勉強と、もちろん仕事もおかげさまでいつも通りで忙しく予想通りにブログを書く時間と心の余裕がなかった。

    田んぼをつくるところから始まった田植えもおおむね無事に終わり(といっても、田植え機で植えられなかった場所を手で植えていく補植という作業はまだやっているが)、電気工事士の試験もひとまず学科試験は自己採点では無事合格できた(こちらも次は7月に技能試験がある)。

    家の周りの石積みも一段落。できたスペースに収穫までに米を保管できる小屋を作りたい(が間に合うかはかなり怪しい気もしている)。

    せっかく電気工事士の勉強もしたし、暑くなる前にソーラーシステムも稼働させたい。というかもともと車を買い替えるときにPHEVにしたのは、日々の送り迎えや買い物の移動くらいはソーラーで賄えたらと思ったからで、一通りの機材も購入済みなのであとはやらないともったいないだけである。

    昨日はこのブログをはじめるきっかけになった柿次郎さんの「風の新年会」つながりの人たちが御代田のCORNER SHOPに集まったのもあって、改めて日々の投稿もリスタートしようと思う。続くかな。

  • HACS

    最近、技術哲学と呼ばれる領域に関わる方々とお話しする機会が何度かあって、HACSというモデルに興味を持っている。

    HACSとは「階層的自律コミュニケーション・システム」の略で、提唱された基礎情報学の西垣通さんの言葉を紹介しつつ詳細は省くが、共同体やコミュニケーションを「自律システムの階層構造」として考えようというのがその肝だと思う。

    話を聞くにつれこれは面白いなと思っているものの、まだちゃんと理解出来ていないかもしれないし上手く伝えられる気もしないが、ひとまず自分なりの理解を書き留めておく。


    まず、人間は自ら生きる自律システム(生き物)である。と同時に上位の自律システム(社会とか共同体とか)をつくる。

    また、それぞれの自律システムは、何らかの価値観をもつ。

    生き物(という自律システム)の価値観は生きることである。すなわち、生きられることが意味や価値である。

    そして、上位の自律システムにも、それぞれの価値観がある。例えば、「法」というシステムなら合法か違法かに意味や価値があり、「科学」というシステムなら真か偽かに意味や価値があり、「経済」というシステムなら得か損かに意味や価値がある、とか。

    もっと小さなシステム、例えばコミュニティやプロジェクトにも、いい/悪いとか成功/失敗とか、あいまいかも知れないが、それぞれの自律システムとしての何らかの価値観が自ずと生まれる。

    そして、法のような一見揺らがなそうな価値観も、はじめから決まっていた訳ではなく、下位システムとしての人間があくまで自律的に関わりながら、徐々に出来ていったり変わっていったりしたものである。(日本人女性初の弁護士を描いた話題の朝ドラ「虎と翼」は、まさにそうしたことを気づかせてくれるドラマと言えるだろう。)

    ここで大事なのは、上位システムの価値観が強固になると、つまり上位システムが自律的になればなるほど、実は下位システムは自律的でなくてもよくなる、というということ。むしろそうなるように上位の自律システムをつくるとも言えるので、ここには「他律的でいられるように自律的に関わる」みたいな矛盾がある。「人間は考えなくていいように考える」みたいな話にも近い。

    例えば、法という上位システムが強固なものになると、下位システムとしての人間はただそれに従うようになり、そもそも法という上位システムが自律的につくられたことを忘れてしまう。そうなってしまうと、下位システムはもはや上位システムに従うAIやロボットでいいということになり、人間がAIと比べられてしまうような状況になる。

    上位システムから見たら下位システムは他律的な存在だが、下位システムはあくまで自律的に上位システムに関わる。本来、人間という自律システムは、そのように両義的な関係にあるいろんな上位の自律システムを介して、他者と関わりながら生きているのであり、そうである限りAIと比べられる不安はないはずだ、ということになる。

    いわゆる社会的な情報伝達というのは、上位の社会システムのなかでデータがやりとりされて意味内容が形式的に交換され、人間はそこであたかも他律的機械のような役割を果たすからこそ可能になるのだ。そこでの役割はAIとまったく同じである。だが肝心なのは、社会的観察のもとで共時的には他律的に振る舞う人間も、心の中ではあくまで自律的な意味形成をおこなっており、通時的・長期的には社会のメカニズムを変革できる、という点である。一方、非APSのAIは単なるメディアであり、そんなことはできない。

    コンピューティング・パラダイムのもとで実行されるデジタル化では、AIと人間は区別されない。すると人間は機械部品化され、ハイデガーの懸念した「総かりたて体制(Gestell)」に組み込まれていく。基礎情報学はその地獄を避けるための知なのだ。

    思想の言葉 “情報伝達”を革新する 西垣通(『思想』2023年5月号)より

    確かに、関わって一番面白いのはまさに上位システムがつくられている過程という感じがする(たんぽぽの家とのArt for Well-beingプロジェクトもまさにその最たるものだ)。ただ、そうやって自律的に関わってできた上位システムを、上手くいったからといってただ他所に持っていくだけでは同じようには上手くいかないのも当然だ。そして、多くの人が他律的に受け身で関わることに慣れて自律的に関わろうとしないような状態の上位システムも多いとも思う。さてどうしたものか。

    ただ一方で、どんなに強固で変わらなそうに思える上位システムも、根本的に生きている自律システムである人間が関わっている限り、いつでも変わる可能性があるとも思う。

    最近見たいくつかの展示、例えばミッドタウンデザインハブの「PROGETTAZIONE (プロジェッタツィオーネ)」や、グッドデザイン丸の内の「山と木と東京」など、まさにたくさんの人が自律的に関わりながら上位の自律システムが生まれていくようなプロセスを興味深く見ながら、HACSの話を思い出して自律と他律の両義性をどうデザインすべきかを考えていた。

    そして、拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』で書いたことも、まさにそうした自律と共生のバランスの話でもある。

    ちなみにHACSにおける自律システムとは、自分で自分をつくるオートポイエティックシステム(APS)なので、AIだろうとロボットだろうとテクノロジーは自律システムではなくあくまでメディアである、と考えるらしい。

    HACSとコンヴィヴィアル・テクノロジーについてもそれだけでいろいろ書くことはありそうだが、とりあえずいったんこの辺りにしよう。

  • 遅霜

    朝から東京へ。日中は暑いくらいの日も多い御代田も今朝はほぼ氷点下。例年5月に遅霜と呼ばれる冷え込みがあり、これを待たずに苗を植えると寒さに弱い作物はやられてしまう、と地元のいろんな人から聞く。温暖化(今年は世界平均気温がずっと観測史上過去最高を大幅に更新し続けているらしい…)にあって、例年通り遅霜がきたのはよいニュースなのかもしれない。

    最近は東京へは佐久平から新幹線に乗ることが多いが今朝は少し時間があり、近くのスタバで電気工事士の試験勉強。学校で習うような電気の知識というより図記号とか配線設計とか法規とか安全基準とか覚えることが多くてこのペースで間に合うかどうかだいぶ怪しい、、ただ、今週も建設現場に行くプロジェクトがあり、図面上の配線が読みとれたり、現場の担当の方と話が通じたりと早速仕事でも役に立っている。家のソーラー計画も必ずしも資格取らなくても出来る範囲だが、知っておいてよかったと思う知識も多い。あと今は本当にわかりやすいYoutubeチャンネルがいろいろあって助かる。

    ところで、時より耳に入ってくるスタバの接客は相変わらず流石だ。若い店員さんだがドライブスルーでやってきた常連さんらしき軽トラのおじいさんと遅霜の話をしている。マイタンブラーにコーヒーを手際よく準備しながら「うちも植えたサツマイモが心配で〜」とかとか。スタバはこれだけの規模になってもちゃんと生きている「人」が働いている感じがする。

  • 多忙な週末

    今年から本格的に関わっている稲作塾の田んぼ作業に、何の準備もしてないのにうっかり申し込んでしまった電気工事士の試験勉強に、夏にアメリカに旅行に行くかもなのもあって英語の勉強も。

    それから長いこと使っていた生ゴミ乾燥機が壊れたのでコンポストでもやるかとなり→調べ始めたらキエーロというのが簡単らしく→というかせっかくなら庭で畑もやるかとなり→畑の造成を始めるもその前にずっと中途半端になっていた石垣の造成と石積みをやりはじめ、それが出来たら空いたスペースに小屋も建てたいし、オフグリッドのソーラーシステムも作りたい、、家づくりも相変わらずいろいろやりたいことがある。

    そして、無事に第一志望の高校に受かった娘の高校生活が始まり、夜はいきなり難しくなった数学を一緒に解いたり。高校数学って初めからこんなに難しかったっけ?やり始めたら少し思い出してきてまだ何とか教えられるし、解けるとパズルが解けたような面白さはあるけど、さてどこまでついていけるか、、

    というわけで、4月に入って仕事の忙しさは落ち着いているものの、休日にやりたいことがたくさんあってとりあえずしばらくブログの更新は滞るかもしれない。

  • 共に生きるための

    昨夜は東京丸の内で大手金融機関の方々を中心にした勉強会に呼ばれてお話しした。本を書いて3年経ってもこうして本をテーマにトークイベントなどに読んでいただくのは嬉しい。

    昨日は、デザイン業界以外の方も多かったので、Takramの紹介、デザインとは?イノベーションとは?といった話から始めて、『コンヴィヴィアル・テクノロジー』の話を、プロローグの一番最初に書いている「何のためのイノベーション?」という問いから始めた。

     そして同時に、これからの時代には、そもそも何のためにイノベーションが必要なのかという視点も欠かせない。いまや、ビジネスマンはビジネスを成立させる力を儲かることだけに使っていればいい時代ではないし、エンジニアはテクノロジーの力を使って何でも実現させていい時代ではないし、デザイナーやクリエイターは人の気持ちや行動を変えることができるクリエイティビティの力を無自覚に使っていい時代ではないのである。

    (『コンヴィヴィアル・テクノロジー』プロローグ より)

    その上で、自立共生などと訳されるコンヴィヴィアリティという概念が、イリイチが「コンヴィヴィアリティのための道具」を書いてから50年のテクノロジーの変化を踏まえてなお重要であること。人間と人間、人間と自然だけでなく、人間とテクノロジーがいかに共に生きるかという視点。そのときに必要なデザインの視点。といった話をした。

    質疑の中で、最初の問い(何のためのイノベーション?)の答えは?という質問があった。この問いはあくまで本の出発点ではあるが、一言で答えるとすれば(イノベーションに限らず)「何のための」を突き詰めていくと、結局「共に生きる」ため、「共に生きる」には?というところに行き着くのではと思う。

    ただ「共に生きる」という言葉だけ聞くと、ちょっと宗教っぽいとか、理想主義的という誤解もあるかもしれないが、どちらかというと「共に生きざるを得ない」という感覚に近い。

    コンヴィヴィアリティとは「共に生きる」ことである。情報テクノロジーや気候危機やパンデミックなど、いずれにしてもお互いの自由がグローバルに複雑に干渉し合う時代において、言ってみれば「共に生きざるを得ない」状況の中で、自由の相互承認の対象としての「わたしたち(We)」はどこまで拡張できるだろうか。

    (『コンヴィヴィアル・テクノロジー』第6章 人間と人間 より)

    最近「生きのびるためのデザイン」という名著の新版が発売されて山崎亮さんの解説が素晴らしいのでそれについても書きたいが、言ってみれば「共に生きのびるためのデザイン」「共に生きのびるためのテクノロジー」「共に生きのびるためのイノベーション」を考えたいのである。

  • 未来のヴンダーカンマー

    3月後半は久しぶりにブログを書く暇がない忙しさで土日祝日も仕事をしていたので、月末から数日休みを取って家族旅行へ。行き先は高校受験を無事に乗り切った娘のリクエストで決めつつ、その途中に前から行きたかった豊田市美術館へ立ち寄る。

    ちょうど今は、「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」という企画展が開催されている。

    絵画や彫刻に加え、動物の剥製や植物標本、地図や天球儀、東洋の陶磁器など、世界中からあらゆる美しいもの、珍しいものが集められた「ヴンダーカンマー(驚異の部屋)」。15世紀のヨーロッパで始まったこの部屋は、美術館や博物館の原型とされています。それは、見知らぬ広大な世界を覗き見る、小さいながらも豊かな空想を刺激する展示室でした。しかし、大航海時代の始まりとともに形成されたヴンダーカンマーには、集める側と集められる側の不均衡や異文化に対する好奇のまなざしも潜んでいました。

    グローバル化が進み、加速度的に世界が均質化していくなかで、今改めて文化や伝統とはなにか、また他文化や他民族とどう出会うかが問われています。かつて「博物館行き」は物の終焉を意味する言葉でしたが、5人の作家たちは、歴史や資料を調査・収集し、現代のテクノロジーを交えながら、時を超えた事物の編み直しを試みます。美術館の隣に新しくできる博物館の開館にむけて開催する本展では、文化表象の実践の場としてのミュージアムの未来の可能性を探ります。

    中でも気になっていたのは、田村友一郎さんの作品。実は以前僕が参加した21_21 DESIGN SIGHTの「”これも自分と認めざるをえない”展」の記録映像を撮っていただいたりといった縁があったりするのだが、いまや国内外で映像インスタレーション作品を手がけられ活躍されているアーティストである。

    今回の作品タイトルは、チタンの元素記号Tiとラテン語で骨を表すOSを組み合わせた「TiOS」。人間の身体と融合するチタンの骨(だから人工関節などに使われる)が、人間とテクノロジーの融合を象徴している。

    ガラスの砂でできたバンカーにチタンのゴルフクラブ。フラッシュが明滅するたくさんのiPhoneでできたUFOのようなオブジェ。チタンでできた骨の一部。それらのX線写真。ゴルフのティーグランドの奥に映像が映し出される六角形の空間。

    チタンの骨は、直立二足歩行を始めた最初期の猿人、ルーシーの骨の3Dデータから再現されたものだという。ルーシーという名は、たまたま研究者が発見時にビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」を聴いていたことから名付けられたらしく、映像ではAIで生成されたジョン・レノンが物語を語り、猿人ルーシーが今度はリュック・ベッソンの同名映画の超人的なヒロインになったりー。

    未来人や宇宙人は人間の骨と一体化したチタンを骨の一部だと思うだろうか。いや、もしかしたらチタンで出来たゴルフクラブさえ骨だと思うかもしれない。チタン製の最新のiPhoneを握りしめた人間はどこまでが人間だろうか。チタン化された私(TiMe)は時間(time)を感じるだろうかー。

    チタン、骨、ルーシー。一見関係なさそうなモノや概念を繋ぐ連想。言ってしまえば駄洒落やこじつけでもあるのだが、それらの関係性の中に本質らしき何かを見出してしまう。展覧会のテーマであるヴンダーカンマー(「博物館」のルーツ)も、偶然見つかり集められた過去の断片をインスタレーションによって繋ぎ合わせる空間であり、ルーシーのような偶然の発見が繋ぎ合わされた歴史の中にも、実はこんなこじつけや誤りがあるのかもしれないー。

    田村さんの作品は、考え抜かれ、細部までこだわり抜かれていると同時に、飄々としていて、シニカルで、ユーモアがある。今回も、チタン製の骨やiPhoneやゴルフクラブを産業用の非破壊検査施設でX線撮影したり、最初期の猿人ルーシーをイミテーションするのにミラクルひかるにオファーしていたり、宇宙船の大気圏突入から繋がる水切りの映像を撮るのに水切りチャンピオンを呼んだり、生成AIが作ったようなCGも豊田カントリー倶楽部で撮影されたドローン映像を元に作られていたり、、なんというか、真顔でやり過ぎている感じのこだわりと、それがまた笑ってはいけないような空気のある美術館に緊張感高くインスタレーションされているところにおかしみがあって面白い。

    他のアーティストの作品もそれぞれ魅かれるものがあったが、家族旅行の合間の限られた時間だったので目に焼き付けつつ、改めて図録もじっくり読んでみることにしよう。