• 言の葉の焚き火

    昨日から北軽井沢スウィートグラスで「オーサーレジデンス2025」という企画に参加している。

    真冬の北軽井沢で
    9人の書き手が灯す
    言の葉の焚き火…
    森はそよぎ山はゆれ
    月も耳をかたむける

    本の書き手や編集者が集い、今週土曜日にTAKIVIVAでのトークセッションが行われるのだが、トークセッションを前に3日間、キャンプ場のコテージで過ごすという面白い企画。

    3日間の間、特に予定らしい予定が組まれているわけではなく、思い思いに「何もしない」をする。

    トークイベントでは、普通は直前に集まって話すことも多いが、3日前から日常を少し離れ、ゆっくり考え、ゆるやかにお互いを知った上でのトークがどう展開するのか楽しみだ。

    窓の外に雪の降り積もる森を眺め、、焚き火の火を見ながら、、ん?あんまり普段と変わらない?笑

    まあまあ、でもなるべく仕事の予定も最低限にして、積読になっていた本を何冊かスーツケースに入れてきた。

    土曜日に担当するトークセッションのテーマは「テクノロジーと言葉」ということで、今回書き手として呼んでいただいた自分の単著は『コンヴィヴィアル・テクノロジー』一冊なので(まあAIの話も避けて通れないだろうとは思いつつ)もう少し広くテクノロジーと言葉について考えられたらと思う。

    とりあえず、買ったままずっと読めていなかったイヴァン・イリイチの『テクストのぶどう畑で』を読むことにする。

    1章 知へ向かう読書
    2章 秩序、記憶そして歴史
    3章 修道士の読書
    4章 ラテン語で<読書すること>
    5章 学者の読書
    6章 記録された話から思考の記録へ
    7章 書物からテクストへ

    相変わらず文体は読みづらそうだけど、タイトルと目次は面白そう。

  • 「安全保障化」されなかった「人間の安全保障」

    「安全保障」という言葉を最近よく目にする気がして気になって調べてみた。

    近年、従来の「国家の軍事力や主権の防衛」といった概念から拡大して、経済、食糧、エネルギーなどいろんな分野に「安全保障」という概念が持ち込まれるようになっている。

    それは、ある問題が「安全保障上の脅威」として語られることで、緊急性を帯びた問題として「特別な権限や強制力」が正当化されるからだ。こうした、(トランプのような)アクターが脅威を訴え、オーディエンス(国民)がそれを受容するプロセスを「安全保障化(Securitization)」というらしい。

    「安全保障」は、守られる内側と脅威とみなされる外側を決定的に分断するが、問題を「安全保障化」すると、分断も正当化されポリティカルコレクトネスをもってしまうのだ。

    もちろん、リアリズムとして生存と安全は大事である。個人の、家族の、地域の、国家の安全保障、大事である。ただ、「安全保障」と言えば何でも正当化されてしまう危うさも頭に入れておきたい。

    実は2000年前後には、別の「安全保障」の概念を拡大する動きがあった。

    地球規模の脅威に対して国家の枠組みを超えて「すべての人間のいのちの尊厳や自由を守る」という「人間の安全保障」という考え方だ。緒方貞子さんらの尽力もあって日本政府の提案をきっかけに国連でも決議され、日本のODAやJICAの大きな方針としても掲げられている。

    でも、いま世界で起きているのは、少し前まで国際的な議論がそこまで来ていたとは思えないような真逆の動きである。

    残念ながら「人間の安全保障」は「安全保障化」されていない。

    繰り返すが、リアリズムとして、個人の、家族の、地域の、国家の「安全保障」、大事である。(そもそも米や薪づくりも我が家の食糧・エネルギー安全保障だなあ、なんて思ったのがこの言葉が気になり始めたきっかけだ。)

    リベラルやポリティカルコレクトネスにも行き過ぎはあって、むしろそれが「なんでも安全保障化」の流れを生んだとも言えるかもしれない。

    でも、改めて国連の「人間の安全保障」の文章を読んでいると、やっぱりこっちに進んでいきたいなあ人類、と思うのである。

  • 「わからない」と「やってみる」のあいだ

    いろんなプロジェクトに関わっていると「先が見えない」という場面に直面する時がある。そういう時は、実験でもユーザーテストでもミーティングでも、何はともあれ「やってみる」ことが大事。やると決めたら「いつやるかを決める」のも大事。

    でも、そこで「じゃああとはその時に」とならないように。
    「やってみないとわからない」
    「上手くいくか不安」
    をそのままにして「やってみる」に臨もうとしていないか。

    「やってみないとわからない」はその通りだとして、具体的に何がわからないのか?やってみて何がわかるといいのか?

    「上手くいくか不安」だとしたら、どうして不安なのか?
    「上手くいく」想像ができているか?
    「上手くいかない」としたらどういう状況がありえるか?
    「上手くいく/いかない」を決める不確定要素は何か?

    「わからない」から「やってみる」までのあいだに、想像する、調べる、洗い出す、手を動かす、、
    手詰まりのようでも、「わからない」の解像度を上げるためにできることは実はかなりある。不確定要素だと思ったことが実は確定できることも結構ある。

    ただし。

    試作検証もユーザーテストもミーティングも、事前準備したことを確かめるだけが目的ではない。「やってみる」時は、あくまで想定外のセレンディピティを受け入れるオープンなマインドで臨むべし。

    そこまでやってきたことをサンクコストと捉えず、常にいまそこからのベストを考える。
    仮説のバイアスや先入観を捨てて、ありのままを見る。
    小さいけど大事なインサイトやクリエイティブジャンプやアブダクションの瞬間を見逃さないように。

    「やってみる」をただの確認じゃなくて創造的なものにしたいなら、それまでにできることはやりきって、考えられることは考えてきって、でもあくまで、フレッシュでニュートラルでフラットなマインドで「やってみる」のが大事。

  • 当たり前の有り難さ

    今年は久しぶりに家族で熊本に帰省しての年越し。予定らしい予定を入れず、昔よく行っていたお店にご飯を食べに行ったり、甥っ子のおすすめの上乃裏通りの古着屋を巡ったり。気づけば子どもたちも一緒に街歩きが楽しめるようになっていて嬉しい。

    帰りの便は久しぶりに窓際の席で、窓からの眺めに心を奪われる。山、雲、海、高度1万メートル、エベレストの頂上より高い視点からの絶景。(ちょうど行きの飛行機の着陸のタイミングで韓国の飛行機事故のニュース速報が流れてきたのもあるけど)何気なく当たり前のように乗っている飛行機って改めてとんでもないテクノロジーの塊。

    そして、帰ってきてぼんやりInstagramを見ていたらニセコの大切な友人、SEED BAGELの平野さんが年末に雪崩に巻き込まれて九死に一生を得ていたことを知る。noteを読んだら、完全に雪に埋まって全く身動き取れず、一度気も失っていたようで、ビーコンをつけていたのが助かった理由の一つではあるようだけど、いろんな幸運が重なって大きな怪我もなく生きて助けられたのが奇跡としか言いようがない。(救助してくれた方が、今まで30人ぐらい雪の中から掘り出したけどみんな死んでた、と。。)ほんとにほんとに無事でよかった。。

    今年の抱負は、当たり前のようなことの有り難さを忘れないこと、かな。

    奇跡のような毎日に感謝しつつ、次の世代にも少しでもそれが続いていくことに関われるといいなと思う。

  • しめ縄なう。

    慌ただしい年の瀬も少し一段落して、昨日はコードマーク御代田のしめ縄づくり体験会に息子と参加。

    御代田に来てから毎年買わせて頂いているしめ縄をつくられている茂木茂さんから直々に教えていただいて自分たちでつくるしめ縄。

    この地域のしめ縄は「ごぼうじめ」と呼ばれるまっすぐなしめ縄。ミニマルでカッコいい。

    まずは藁を束ねて、普通の縄をなう練習。

    手を合わせてこんなふうに、と茂さんがやるとなんでもないように藁がより合わさっていくが、やってみると、手が乾燥して滑るし力加減も難しい。

    そしていよいよしめ縄。やることはほとんど変わらないが、神様を迎えるものなので、通常の縄とは逆向きによっていくのと、藁束を3つに分けて、まず2つの束をよって、さらにそこに3つめの束をよりあわせていく。慣れてくるとそれなりに形になってきて面白い。

    南天の実、松葉、稲穂、紙垂を飾り付けて完成。

    自分たちで米をつくり、できた藁で縄をなう。感慨深い。

    「縒る(よる)」とか「綯う(なう)」っていう日本語も美しい。とりあえずSNSに「しめ縄なう。」と投稿してみた。昨日だけど。

  • それぞれのリアル

    いろんな立場のいろんな人の大統領選振り返りを見聞きして、どれもなるほどなーと勉強になった。

    どっちを支持してたかもさることながら、マスメディア、ネットメディア、個人の発信、いろんな世代、日本、アメリカ、ヨーロッパ、BRICS、GS、見え方もいろいろ。どんな見方も馬鹿にしてはいけないリアル。

    世界がそんなそれぞれのリアルが干渉するリアリズムへ向かうとして、リベラルな視点が必要ない訳じゃないし、むしろ難しくなるからこそ、言ってるだけじゃなくて目の前の自分にできることやりたいことと繋げていかないといけないよなあと。

    コンヴィヴィアル(共に生きる)、むずいなー。

  • できることをやる

    わたしたちはしばしば、
    できることをできないと過小評価しがちで、
    できないことをできると過大評価しがち。

    本当にできないのか?
    本当にできるのか?
    自分にできることは何か?

    ちょうど自分にできるギリギリをやる。

    「できることをやる」って言うと当たり前のようだけど、ポイントは「できることだけやる」でも「できること全部やる」でもないところだろうな。時間は有限で、近いところから全部やろうとしたらギリギリまでいけないし、自分が影響を与えられない遠すぎることを考えたり言ったりしてるだけでも何も起きない。

    ちょうど自分にできるギリギリを見極めて、やる。

    今週の学び。

  • 稲刈り

    息子が米つくりたいと言い出して今年本格的に取り組むことになった米づくり。地域の人たちや周りの仲間にたくさん助けてもらって、なんとか稲刈りを終えることができた。

    https://www.instagram.com/p/DAlctm7yMiz/

    もともと先週稲刈りの予定だったのだが、当日朝行ってみると田んぼの中の水が全然引いておらず、奥の水溜まりでは稲が倒れていてとても稲刈り機が入れる状況ではなかった。(稲が倒れるのは、よく育って背が高く稲穂が重いのに加えて、水が引かず根元の土が緩いから。穂が実って先端が重くなると共に絶妙に土が渇くようにタイミングよく水を抜いていく必要があるようだ。)協力しながら同じようにやってきた両隣りの田んぼはしっかり乾いていたので、やはり今年新たに始めた田んぼでいろいろやってみないとわからないことがある。

    結局その日は予定を変更して両隣りの稲刈りを先にみんなでやり、次の日は「田んぼの水全部抜く」作戦。周りの方々も助けに来てくれて、長年培われた知恵を教えてもらい、田んぼの中に溝を掘ったり、畔を一部崩して田んぼの中の水を外に流したり。

    自分でも何か使える道具はないかと、以前畑を借りていた時に使っていた簡易ポンプとポータブル電源を持っていったのだが、これも思いのほか役に立った。先人の知恵とテクノロジーの組み合わせで徐々に水が引いていく。

    翌日から時間があれば黙々と倒れてしまった稲をぬかるみから救出してひたすら手刈り。根元だけでも立っていれば稲刈り機が刈ってくれるが完全に倒れてしまうと手で刈ることになる。手伝いに来てくれた皆さんへは感謝しかない。自然相手では自分がいつ助けてもらうことになるかわからない。普段から助け合うことの大事さを身をもって知る。

    同時に、手植えや手刈りをしてみると田植え機や稲刈り機というテクノロジーの凄さも感じる。田植え機は苗箱から程よく苗を摘んで次々植えていくし、稲刈り機は刈ってくれるだけでなく縄で縛ってくれる。ほんとによく出来ている。

    ちなみに、朝1人で田んぼにいるとどこからともなくアオサギがやってきて、気づくと虫やどじょうをついばんでいる。こちらに気づいても慌てず騒がず悠々としていて、まさに「君たちはどう生きるか」の世界だ。

    そんなこんなで土も固まってきてようやくの稲刈り。この日もいろんな方に助けてもらいながら、なんとか稲刈り完了。息子も振替休日で手伝い頑張った。あとは脱穀まで台風や大雨が来ないことを祈るのみ。

    植えた時はあんなに頼りなげだった数本の苗からこんなに立派な稲が育ち、米として食べられるという奇跡。現代は衣食住はもう満たされて、、という言い方をたまに見かけるが、食が満たされているのは決して当たり前ではなく、こんな奇跡に支えられていることを改めて実感する。

  • 今より悪くならない未来

    この日は、八重洲ミッドタウンで行われた「エッセンスフォーラム2024 – 研究知の社会実装に向けて – 」というイベントに参加した。

    昨年に続く日本最大規模の研究者ビジネスカンファレンスとのことで、大学の研究者だけでなく、いわゆるディープテック系スタートアップや大企業の研究所の方なども多く参加されていたと思う。

    ウェブを見ると、今回のテーマは「研究知の社会実装(Knowledge to Knowledge Capital)」で、「研究知との出会いが社会を前進させる重要なリソースになり得ることを改めて確認し、その可能性と課題を共に深めるためのテーマ」とあった。

    基調講演ではMIT Media Lab石井裕先生の変わらぬパッション溢れるお話を聴き、その後のセッションでは、たまたま隣になった方と話したら自分の本を読んで頂いてたり、また別のセッションでは、よそよそしく話しながらなんかどこかで会ったことあるなと思ったら大学時代のクラスメイトだったり、偶然の出会いも面白かった。

    さて、聴講したセッションの一つで、会場から「10年後にとんな社会になっていたらいいと思うか?」という質問があった。「好奇心駆動型社会」「脱地球社会」「氾生命社会」「当事者化社会」「自然社会」いろんな視点が挙げられてどれも興味深いものだったのだが、実は先日自分が登壇したイベントでも同じような質問をされて、答えに悩んでしまったのだが、たしかその時は「今より悪くならない社会」みたいな回答をした気がする。

    個人的には、どちらかといえば(というかかなり)楽観的で、こうしたイベントも未来に対して前向きな気持ちで参加したいとは思うものの、この日は特に朝から、能登の豪雨被害の状況が次々と届いたり、中東ももう後戻りできなそうなところまでエスカレーションしていたり、目の前の現実に、本当にこれからも「社会は前進する」のだろうかと思ってしまった。

    以前また別のイベントに登壇した日がちょうどロシアがウクライナに侵攻した日で、この日もイスラエルがヒズボラを空爆した日で、そんなニュースを気にしながら、今日が悪い意味での歴史の転換点にならないといいなと思いながら話を聞いていた。(ちなみに、こういうイベントでそうした話題に必ず触れるべきと言いたい訳ではない。が、自分が聞いた議論の中では、石井先生は、世界が分断に向かう中で「わたしたち(We)」という主語を安易に使うべきではないという趣旨の発言の中でウクライナやガザの話に触れていた。)

    政治にせよ、経済にせよ、研究にせよ、何かの「正しさ」には「前提」がある。歴史を見ればそうした「前提」が覆り、「正しさ」が180度変わるようなことは何度も起きてきた。今もまたその「前提」が大きく変わろうとしている時である可能性を頭の片隅に置きながら、それでもあくまで出来るだけポジティブに楽観的に、誰もがよく生きられる未来になるようなことが少しでも出来たらと思う。

  • 奥能登豪雨

    夏に能登に行った人のお土産の一つに地元の北國新聞があって、数ヶ月経っても連日一面は地震関連のニュースで埋められていて、まだ何も終わってない(というかむしろ始まってない)という感じがした。かと言って自分も結局まだ何か出来たかというと出来ずにいるのだが、そんなまだまだ復興復旧もままならないところに今回の豪雨。

    今朝の北國新聞の紙面がウェブで無料公開されていて、連日の地震関連の紙面がこれで上書きされたのかと思うと、ほんとになんと言ったらいいかわからない。

    東日本大震災の時はSNSがとても役に立った記憶があるが、今はかなり意識して見に行かないと全然状況が流れてこない。ブラックボックス化したアルゴリズムによってタイムラインはもはや機能していないようにも見えるし、そもそも今度ばかりは被災した方々も心が折れて声を上げる気力も出ないような状況なのではないかと心配になる。

    そんな中でも様子を伝えてくれる人やコミュニティやメディアを、フォローしたりシェアしたり、せめてほんのちょっとでも思いを寄せていることが伝わるようにしたいなと思う。