「安全保障」という言葉を最近よく目にする気がして気になって調べてみた。
近年、従来の「国家の軍事力や主権の防衛」といった概念から拡大して、経済、食糧、エネルギーなどいろんな分野に「安全保障」という概念が持ち込まれるようになっている。
それは、ある問題が「安全保障上の脅威」として語られることで、緊急性を帯びた問題として「特別な権限や強制力」が正当化されるからだ。こうした、(トランプのような)アクターが脅威を訴え、オーディエンス(国民)がそれを受容するプロセスを「安全保障化(Securitization)」というらしい。
「安全保障」は、守られる内側と脅威とみなされる外側を決定的に分断するが、問題を「安全保障化」すると、分断も正当化されポリティカルコレクトネスをもってしまうのだ。
もちろん、リアリズムとして生存と安全は大事である。個人の、家族の、地域の、国家の安全保障、大事である。ただ、「安全保障」と言えば何でも正当化されてしまう危うさも頭に入れておきたい。
実は2000年前後には、別の「安全保障」の概念を拡大する動きがあった。
地球規模の脅威に対して国家の枠組みを超えて「すべての人間のいのちの尊厳や自由を守る」という「人間の安全保障」という考え方だ。緒方貞子さんらの尽力もあって日本政府の提案をきっかけに国連でも決議され、日本のODAやJICAの大きな方針としても掲げられている。
でも、いま世界で起きているのは、少し前まで国際的な議論がそこまで来ていたとは思えないような真逆の動きである。
残念ながら「人間の安全保障」は「安全保障化」されていない。
繰り返すが、リアリズムとして、個人の、家族の、地域の、国家の「安全保障」、大事である。(そもそも米や薪づくりも我が家の食糧・エネルギー安全保障だなあ、なんて思ったのがこの言葉が気になり始めたきっかけだ。)
リベラルやポリティカルコレクトネスにも行き過ぎはあって、むしろそれが「なんでも安全保障化」の流れを生んだとも言えるかもしれない。
でも、改めて国連の「人間の安全保障」の文章を読んでいると、やっぱりこっちに進んでいきたいなあ人類、と思うのである。