• ムーミンとコンヴィヴィアル

    今日は小海町高原美術館で開催中の「ム―ミンの食卓とコンヴィヴィアル展」の学芸員ツアーに参加した。

    実は『コンヴィヴィアル・テクノロジー』発売後すぐ、飯能のムーミンバレーパークで「コンヴィヴィアル」と題された展覧会が開催されると知って驚いたのを覚えている。

    こんな聞き慣れない言葉をタイトルにして大丈夫だったかなという不安もあったので、あのムーミンが展覧会のタイトルに!と勇気づけられ、これは見に行かねばと思っていたものの、結局会期を逃し、その後も全国を巡回しているのは知りつつ遠くてなかなか行けずにいたのだが、なんとその最後の巡回展が(うちから車で1時間もかからない)小海町の高原美術館で開催されることになったのだ。

    さらに、拙著を読んでいただいた「ほっちのロッヂ」の藤岡聡子さんから誘ってもらって、移住後に長野で知り合った人たちも一緒にタイミングよく学芸員ツアーに参加することができた。

    展覧会は、決してインタラクティブな仕掛けや大きな作品があるようなものではないが、トーベ・ヤンソンによる原画はやはり見応えがあった。(巡回展の中でも一番原画の点数が多いらしい。)

    さてさて、この展覧会では「コンヴィヴィアル」という言葉をどんな風に捉えているのだろう。

    学芸員さんの説明によると、それを象徴するのが展覧会のキービジュアルの一つにもなっている「空飛ぶ食卓」の挿絵だという。

    この挿絵は、ムーミンがその名を世界に知られるきっかけとなったムーミンシリーズ第3作「たのしいムーミン一家」の、こんなラストシーンを描いたものだという。

    前作の旅の途中でムーミンと出会って親友になり、ムーミン谷で暮らしていたスナフキンだったが、冬が来る前に旅立っていってしまう。

    スナフキンが旅立った後、ムーミンが残った仲間たちと食卓を囲むラストシーンで、願い事を一つ叶えてもらえることになったムーミンは、

    この楽しい食卓をスナフキンのところへ運んであげてほしい、と願うー。

    「コンヴィヴィアル」の「共に生きる」という意味には、今その場にいる人たちと「共に生きる」というだけでなく、旅立ってそこにいない人とも「共に生きる」という意味も含まれるのだ。

    偶然にも、拙著の冒頭で「コンヴィヴィアル」という言葉の意味について引用した山本哲士氏の著書の一節は次のようなものだった。

    たとえば、ラテンアメリカのある山村に、異質な人(他所からきた宣教師や神父)が訪れ、バナキュラーな暮らしをしている村人たちに役立つ「いい話」をしたとする、それがいままでなかった異質な話であるのに、村人たちの暮らしに役立つようなものであり、和気藹々とその時間がすごされたとき、「今日はとてもコンビビアルだった」という言い方をされる。他律的なものが、自律的なものに良い方向へ働いたということだ。現在の日常でも、それは使われている。

    スペイン語では、現在でも日常語として生きている言葉だ。メキシコシティにある大きな公園、チャプルテペック公園は、「コンビビアル」と銘されている。子どもと大人たちが、楽しく過ごす場所である。他所の異質なもの、そしてある限られた時間、そして相反しているものが共存しえたとき、これがコンビビアルなものの要素である。

    (山本哲士『イバン・イリイチ』より)

    スナフキンもまさに他所からきた旅人であり、限られた時間を共にしてまた去っていく。人は常に出会いと旅立ちを繰り返しながら、それらをひっくるめて出会った人たちと共に生きていく。「コンヴィヴィアル」にはそんなニュアンスが含まれているのだと思う。

    そして、それには死という旅立ちも含まれるだろう。わたしたちはもう会えない人たちとも「共に生きる」のだ。

    そういえば、イリイチも過ごしたメキシコの「死者の日」は、とてもカラフルで賑やかなコンヴィヴィアルな感じがして…と、見終わったあとも話は尽きなかったが、この続きはきっと聡子さんがどこかでしてくれると期待して、この辺にしておこう。

  • 大きなチャレンジ、小さなトライ

    この連休は、山口情報芸術センター(YCAM)で行われた、フォーラム「Art for Well-being-表現とケアとテクノロジーのこれから」に登壇した。

    今年はこれまでの取り組みを広げていくのがテーマということで、たんぽぽの家のある奈良を飛び出し、メディアアートの拠点であるYCAMで体験展示とフォーラム、ドキュメンタリー映画の上映が行われた。

    ちなみに一緒に登壇したYCAMでアーティスティック・ディレクターをつとめる会田大也くんはIAMASの同期でもあり、2008年に彼が誘ってくれた「ミニマムインターフェイス展」でON THE FLYが生まれたこともあり、この場所で話ができるのは個人的にも感慨深いものがある。

    2年前から関わってきたこのArt for Wellbeingプロジェクトについては、これまでにもこのブログで書いてきたので、このフォーラムで個人的に印象に残ったことを今日は書いておきたい。

    たんぽぽの家にしてもYCAMにしても、今回の「表現とケアとテクノロジー」のようなあまり前例のないようなテーマの取り組みや、これまで美術館が扱ってこなかったようなメディアやテクノロジーを使った新しい取り組みを、プロジェクトとして立ち上げ、続けていくことが一番大変なことだと思う。面白そうな取り組み、というだけでは物事は始まらないのだ。

    そのことに関して、たんぽぽの家の小林大祐さんが、このプロジェクトの文化庁事業としての正式名称は「心身機能の変化に向きあう文化芸術活動の継続支援と社会連携」なんですと仰ったことがまず印象的だった。

    ウェブサイトにもあるように、このプロジェクトは、文化庁の「障害者等による文化芸術活動推進事業」として行われているもので、ウェブサイトには以下のような趣旨が書かれている。

    筆を握れなくなる、体が思うように動かせなくなるなど心身の状態が変化したとしても、表現活動を継続したい人や、新たに創作に取り組みたい人、それらを支援したい人たちがいます。

    これに対して、AIやIoTと呼ばれる人間の “知能” “身体” “社会的つながり” に関わる現代のテクノロジーが、障害のある人の生涯にわたる創作や表現に活用されている事例は多くありません。

    そこで、障害のある人やその支援者が、さまざまな技術とともに創作や表現を生み出し、創造的な活動を継続または取り組める環境づくりを、文化庁の事業の1つとして推進しています。

    「Art for Well-being のはじまり」より)

    文化庁の事業、つまり税金が使われる公共性のあるプロジェクトとして、当然だが、多くの人に共感されるようなビジョンやミッションを描くことが求められるのだ。

    一方で、具体的に例えばAIやVRやNFTといった新しいテクノロジーを取り入れたプロジェクトをいきなり始めようとしても、それはプロジェクトの当事者にとってはもちろん、それを事業として採択する側の行政にとっても、ほんとうに何かできるのかの判断がなかなか難しい。そのためには、まずは勉強会やワークショップを開いたりすることで、小さな実績を地道に積み重ねていくことが大事だと仰っていたのにもとても共感した。

    これは公共性のあるプロジェクトに限ったことではないだろう。意味や価値があると信じることを実現するためには、共感を得られる「大きなチャレンジ」を掲げることと、それが絵に描いた餅にならないために日々「小さなトライ」を積み重ねること、その両方が大事なのだ。


    (余談だが、Youtubeでちょうどこんな動画が流れてきた。オチの「チャレンジ1年生」と「家庭教師のトライ」のニュアンスの違いが笑える。。)

  • どんぐりを落としたのは

    気づけば今年も夏が終わり、ベランダにどんぐりが落ちてくる季節になった。

    特にこの季節のどんぐりは、実だけじゃなく何枚かまだ緑の葉っぱがついた状態で枝ごと落ちていて、よく考えると不思議だ。

    こどもたちがまだ小さかった頃、福音館書店の絵本シリーズ「かがくのとも」を定期購読していたのだが、その中の一冊「どんぐりをおとしたのはだれ?」という絵本にその謎が書かれていて印象に残っている。

    実は、枝の先が勝手に落ちているわけではなく、「チョッキリ(絵本に出てくるのはハイイロチョッキリ)」というゾウムシの一種がドングリに卵を産みつけて、枝ごと「チョッキリ」と切り落として地面に落としていたのだ。

    誰に教わるでもなく、枝の先のどんぐりに穴を開け、卵を産んで、穴に蓋をして、自分も落ちてしまわないように少し枝を戻って、枝先を切り落とす。ほんとに不思議。

  • アドラーとVRChat

    中2の息子が夏休みの調べ学習で、最近ハマっているVRChatについて書いていて、これがなかなか面白かった。

    まず、VRChatとはいわゆるメタバースと呼ばれるものの「老舗」の一つだが最近ユーザーが急増して人気になっているらしい。その特徴は、(息子の説明を要約すると、、)

    一言で言えば「VR空間になったSNS」。ユーザーが自分でアバターやワールドを作成・カスタマイズ可能。これにより自由度が非常に高い。

    ユーザーが制作した映像作品が増加中で、日本国内でもVRChatを利用したクリエイターが活躍。

    ユーザー主催のイベントが頻繁に開催され、日常的に楽しむことができる。

    実際に会っているかのような没入感があり、多くのユーザーが世界中から集まって交流している。異文化コミュニケーションが活発。

    ということらしい。息子も実際に自分でUnityでアバターをつくったり、イベントに参加して友達ができたり、英語もVRChatで身につけ始めている。(ちなみに昨日は日本語が上手なインドネシア人と友達になったらしい。)

    さて、ここからが分析パートなのだが、実は息子の最近の愛読書が『嫌われる勇気』(アドラー心理学について書かれた世界的ベストセラー)らしく、図書館で何回も借りてきて、なぜVRChatが人気なのかをアドラー心理学の視点で分析していた。

    VRchatと最もかかわる概念。それは共同体感覚です。他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられること。それが共同体感覚です。そしてこの感覚は、幸福な対人関係の在り方を変える最も重要な指標であるとアドラーは言います。この感覚こそ人が集まる要因です。(中略)メタバースという非日常的な空間でありながらも、共同体感覚をユーザーが作れる空間を提供しているのがVRChatだということがわかりました。

    さらに、ChatGPTにアドラーとVRChatについて聞いてみたようで、

    「ワールド作成やイベント企画など、VRchat内での貢献活動は、自分の能力や存在意義を実感する機会となります。アドラー心理学では、貢献感は幸福感に繋がる重要な要素だとされています。VRchatは、現実世界での役割や立場にとらわれず、自分の得意分野や興味を生かして貢献できる場を提供されています。また、VRchat内での活動を通じて得られる成功体験は、自己効力感を高め、さらなる挑戦意欲を刺激するでしょう。」

    というChatGPTの回答が引用してあり、

    何が言いたいかと言うと、現実よりも圧倒的に共同体感覚を感じやすいと言う事です。現実世界での役割や立場にとらわれず、誰もが上下ではない横の関係でつながる環境は、皆が望んでいるものです。そしてつながる人々に自分の内面にある創造力をアバターやワールド制作を通して表現することができます。

    とまとめていた。なるほど。。

    もちろん、全体の文章は冗長な部分や中学生らしい言い回しもあって国語の先生に直されたりしていたようだが、VRChatとアドラーを結びつけようという発想が面白いし、ChatGPTの回答もちゃんと「引用」してる。

    というか『嫌われる勇気』、ベストセラーだしなんとなく内容も知った気になってたけど、俄然興味が出てきたのでちゃんと読んでみることにする。

  • はじめる動機、つづける動機

    誰しも自らすすんでやりたくなること、モチベーションが自然と生まれてくることがあるんじゃないだろうか。

    そうしたモチベーションのもちようは人それぞれであり、チームで何かをするときには、お互いのタイプの違いを知っておくとよい。仕事に限らず、目標と現状にギャップがあるときは何かを変える必要がある(環境が整っていなければ環境を整えるとか、スキルが足りなければスキルを磨くとか)が、性格や性分のようになかなか変えられないものもあって、それは無理に変えようとせず、それぞれに合ったやり方をした方がよく、その一つがこうしたモチベーションのタイプだという。Takramで1on1を始めるときにcoachedさんにサポートしてもらってこうしたことを教えてもらったのだが、そこで知ったのが 「マクレランドの欲求理論」をベースにした4つのモチベーションタイプだ。

    この理論によると、人間の行動の動機づけに影響を与える欲求には次のようなものがあるらしい。

    達成欲求(Need for Achievement)
    高い目標を設定し、それを達成したいという欲求。挑戦を好み、達成感や成功を重視する。何かを達成することにモチベーションを感じるタイプ。

    権力欲求(Need for Power)
    他者に影響を与えたいという欲求。影響力を持つことで目標を実現しようとする。責任ある地位や影響力をもつことにモチベーションを感じるタイプ。

    親和欲求(Need for Affiliation)
    他者と良好な関係を築きたいという欲求。調和や受け入れを求め、友好関係を重視する。他者に協力することにモチベーションを感じるタイプ。

    回避欲求(Need for Avoidance)
    困難や失敗から逃れたいという欲求。ストレスやリスクを避け、安全な状態を維持することにモチベーションを感じるタイプ。

    こうした性格診断はどれか一つに当てはまるということではなく、誰しも持っているが強弱があるというものだと思うが、診断テストをしたら確か自分は親和欲求が強い傾向があり、なるほどその道ではよく知られた理論というだけあって納得感があった。

    先日、とある会話の中でこの話になったのだが、この4つに当てはまらない「探求欲求」みたいなものもあるのではと言われ、確かに思った。達成にもやや近いが、達成できなくても探求自体が動機づけになることはありそうだ。上に付け加えるなら、

    探求欲求(Need for Exploration)
    新しい発見や経験をしたいという欲求。好奇心が強く変化を求め、未知の領域を探ることにモチベーションを感じるタイプ。

    といったところか。

    さらに考えていて、行動には、はじめる動機とつづける動機があるのではないかということに思い至った。

    自分の場合、常に探求したい何かがあるかと言われると実はそこまででもなくて、何かをはじめるときには、クライアントだったり、家族や友人だったり、誰かのためになるとか誰かが喜んでくれるというモチベーションが必要なのだ。

    ただいったん何かをはじめると、ここはもっとよくできるかもとか、他に方法はないかとか、可能性の探求がより強いモチベーションになっている気がするのだ。

    そういえば、自宅のすべり出し窓につける網戸をDIYしていて、はじめた動機は家族に喜ばれるためだった気がするが、探求モードに入ってしまって未だに試作改良を重ねていて必要な窓に全部付けられていなくて家族にやや呆れられている。

    仕事で考えると、まさに今やっているような仕事、つまりクライアントワークであり、なおかつ誰もまだ正解がわからないようなプロジェクトに関わることが自分に向いているんだなということに改めて気付かされた。クライアントの期待に応えたいという親和モチベーションではじめられて、さらに誰にとっても未知の領域への探求モチベーションでつづけられるのだから。もちろん、さすがに仕事では納期や依頼内容には応えた上で、あくまで”Over Deliver”として探求するように心がけているが。

    はじめる動機とつづける動機をわけて考えてみると、より自分の性格や性分にあった物事の進め方ができるようになるかもしれない。

  • 道なき道を進む

    今日は、きたもっくの福嶋誠さんに北軽井沢で展開されている事業を案内してもらった。いつもいろいろプロジェクトをご一緒しているミュージシャン/サウンドエンジニアで北軽井沢にもスタジオをもって活動されている松井敬治さんの紹介で。

    ルオムの森でランチをしたあと、キャンプ場SweetGlassにはじまり、宿泊型ミーティング施設TAKIVIVA、山の手入れから伐採、薪の乾燥、製材、養蜂まで、山の循環産業を目指す「あさまのぶんぶん」の工場、さらにまだ構想中のいくつかの拠点などを見せていただく。北軽井沢は同じ浅間山麓でありながら軽井沢や御代田とはまたちょっと違うスケール感と風景で面白い。

    福嶋さんのお話は、浅間山という圧倒的な自然の力を前にした「自然に従う生き方」、地域に根ざした新産業をつくるという「地域主体方法論」という考え方に共感するし、90年代に地元北軽井沢に戻って手探りでキャンプ場を始めたときの話も、最初はいくら木を植えても枯れてしまい植木屋さんもお手上げ状態の中でダメ元で山から樹種を選ばず雑多に持ってきたら定着したという話や、「人が居続けられる場づくり」を軸に展開されてきた事業の話など、どれもとても興味深かった。(TAKIVIVAにも飾られていた2021年にグッドデザイン賞金賞を受賞したときの事業の全体像を描いた絵がわかりやすい。)

    そうした実践をこの規模で動かされているのもすごいのだけど、福嶋さんご本人のピュアでナチュラルな人柄も魅力的。福嶋さんのパジェロに乗せてもらいながら、最後は牧草地のある山の方まで案内していただいたのだが、ちょっと上の方まで上がってみますか、とおもむろに牧草地を進んでいく福嶋さん。これまでも何度もスタックしたり横転したりしたことがあると笑い話をしながら進んでいったら、最後は本当に溝にタイヤがはまりスタックしたり(笑)。

    人生だけでなく、文字通り(時にはスタックしながら)「道なき道を進む」姿を目の前でみせていただいた、記憶に残る1日だった(笑)。

    福嶋さんのお話は、ウェブの記事や僕も出演させてもらった山水郷チャンネルでもいろいろされている。地域主体方法論も改めてしっかり読んでみたい。

  • リテラシー

    たまに息子と風呂に入りながら話すのが面白い。中2になってほとんど体は大人サイズになってきて家の風呂ではもはや窮屈だが、それでもスマホもネットもなく、ただ話をするしかない時間がいい。

    昨夜は息子が、テスト前で勉強した方がいいのはわかっているけど、なかなかやる気が起きないと言う。

    最近はVRChatでアバターや部屋をカスタマイズするためにDiscordで友だちと話しながら Unityをいじるのが難しいけど楽しいらしく、ついついもうすぐテストなのにUnityを立ち上げちゃうと。

    いいなぁ、わかるなぁ。ずっとやってたいよねぇ。そういう時は好きなだけやったらいいよと言いたい気もするが、たしかにテスト期間くらいはテスト勉強やった方がいいかもなあとも思う。(というか、そもそも自分で勉強した方がいいと思ってるだけでも感心する。)

    なんで勉強した方がいい気がするんだろうねぇ、でもなんでやりたくないんだろうねぇ、、と一緒に考えてみる。

    いろいろ話していて、やりたいかやりたくないか、もしくは好きかと嫌いかとは別に、ラクか大変か、イージーモードかハードモードかもあるねという話になった。

    やりたくないをやりたいにする、もしくは嫌いを好きにするのは、どうやったらいいかわからない感じがするけど、大変なことをラクにする、ハードモードをイージーモードにするのは、まだ少しできそうな感じがする。そうすると「やりたい/やりたくない」「ラク/大変」の組み合わせが4つ出来る。

    「やりたくないし大変なこと」をやるのは到底無理な感じがするけど、「やりたくないけどラクなこと」ならまだ出来る感じがするし、「やりたいけど大変なこと」は頑張れるかもしれないけど、それが「やりたいしラクなこと」になったら最高だよねと。

    学校の勉強は、大変なことがラクになるためにやるのかもしれない。じゃあ具体的には何がラクになるんだろう。一つあるとしたら他の人と分かりあえるのがラクになるんじゃないかなあ。英語が出来たら英語を話す人と分かりあうのがラクになるし、数学とか理科が出来たら理系の人と話が通じたり、地理で九州のこと知ってると九州の人と仲良くなれるかもしれないよね。

    「リテラシー」ってそういうことなんじゃないかな。(ちなみに最近は学校でもリテラシーという言葉が出てくるらしく、前にリテラシーって何?と聞かれたことがある。)自分がやりたいことをやるためには必要なくても、分かりあえる人が増えると面白いし、そうしてると自分も思わぬことに興味もったり、思わぬやりたいことも見つかるかもしれない。

    でもなあ、UnityでVRChatのアバターとか部屋をつくりたいってモチベーションは応援したいんだよなあ。何かつくりたいと思えるってすごいことだと思うんだよねえ。でもテスト前だしねえ、難しいねえ。

    そんな結論のない会話をした。

    「リテラシー(literacy)」の語源はラテン語の「literatus(文字を知っている)」という意味の言葉らしい。「リテラシー」=「読み書きできる能力」と説明されたりするが、いわゆる「日本語」「英語」のような文字通りの「文字」だけじゃなく、専門分野にはその専門分野の「文字」があるし、文化にもその文化の「文字」があり、それを知っていることが「リテラシー」なのだろう。

    さらに考えると、誰かと分かりあえることと誰かに何かできることも違い、それが「コンピテンシー」=「実行する能力/行動する能力」ということになるのだろう。

    このブログのタイトルで言えば、「わかる=リテラシー」と「つくる=コンピテンシー」ということになるのかな。

    コンピテンシーという意味では、Unityいじり倒してる方がいいかもしれないし、とはいえリテラシーも大事だと思うし、やっぱり両方大事だなあ。

  • Garbage in, garbage out

    週末は移住した御代田のコワーキングスペースGokalabでトークイベントだった。

    Gokalabは、メンバーを「研究員」と呼んで、今回のような勉強会を開催したりと、単なるコワーキングスペースに留まらないユニークな場である。

    今回『コンヴィヴィアル・テクノロジー』を読んでオファーいただいた倉嶌洋輔さんもGokalab研究員で、企業にAI導入のサポートや研修などをされているAIコンサルタント。『AI時代のキャリア生存戦略』という本を書かれているということもあってAIと仕事の話を中心にしつつ、子育て世代の方も多いということで、教育についてもテーマに加えましょうということになった。

    僕の本は、AIに限らないテクノロジー全般、道具と人間の関わりについて考えていて、今回もまずこれまでの仕事を紹介したあといつものように、不足と過剰の二つの分水嶺の間に留まる「ちょうどいい道具」とは?そのための「6つの問い」とは?といったイントロをしつつ、(きっと明日から仕事で使えるような話は倉嶌さんがしてくださるだろうと思ったので)なるべく具体例としては仕事以外の話を紹介することにした。

    最初はリサーチやインプットについての話題で、いきなり唐突だったが、たまたま最近の例として、僕が以前からフォローしている量子物理学者の方の投稿がわからな過ぎてChatGPTに聞いてみた話を紹介した。詳細は省くが、一見1ミリも意味がわからないようなことも、「分かりたい」という気持ちがあれば、AIがなんとかその間を埋めてくれるのがよいところである。

    次に、倉嶌さんからコンピュータサイエンスでよく使われる「Garbage in, garbage out」、つまり入力の質が出力の質を決めるという話があり、これもちょうど最近息子の宿題でChatGPTを使ってみた話をした。

    息子は最近中学の国語の授業で枕草子をやっていて、自分が身の回りで趣き深いと感じることを枕草子風に表現してみるという宿題が出たという。

    そこで、息子は「空港で飛行機が次々に飛び立っていくところ」が思い浮かんだらしく、話しながら枕草子風にするとどうなるかChatGPTに聞いてみようということになった。

    まずそもそも、飛行機が次々に飛び立つ様子を枕草子の情景に選ぶセンスがとても面白く、もうその入力の時点ですでにいいので出力も面白いものになる。(ちなみに息子は結局それも参考にしつつ自分なりの言葉で書いていた。)

    また、ChatGPTのようなLLMは、その仕組みから入力と出力の関係があいまいでもうまくその間を繋ぐことが得意で、簡単な例として、言葉を天気の絵文字で表すという例を紹介した。

    雨、晴れ、薄曇り、小雨、、といった多様な表現を限られた天気の絵文字のどれかに当てはめられることはもちろんだが、例えば、「涙」なら🌧(雨)に、「楽しい」なら🌞(太陽)に、「夢」なら🌌(星)にといった具合に、どんな表現でも一番相応しい絵文字に当てはめてくれるのだ。(これをデータベースと検索で実現しようとしたらかなり大変である。)

    さらにその応用例として、以前作ってみた御代田町ゴミ出しGPTの話をした。いつまで経ってもゴミ出しルールをなかなか覚えられないので、ゴミ出しの質問に答えてくれる自分用のChatGPTを作ったのだ。

    元々御代田町にはオープンデータを使ったゴミチェッカーというページがあり、そのデータを学習させることで分別方法やゴミ出しの日を教えてくれるAIである。「次の可燃ゴミの日は?」という質問はもちろん、「梱包材は?」と聞けば素材毎の出し方を教えてくれ、「丸ノコの刃」なら刃を包んで刃物と表記、といった注意もしてくれる。もちろん100%正しいとは言い切れないが自分で作って使う分には十分である。

    ちなみに、「これがほんとのGarbage in, garbage out」というオチを言いそびれたことが悔やまれる、、

    他にもいろんな話をしたが、結局今のところ生成AIも、やりたいことや向かいたい方向にある何かと現状の間を埋めてくれる道具の一つであり、仕事だろうと宿題だろうと、使うモチベーションが自分にあって、使えるのであれば使えばいいと思う。

    もちろん、新しい道具は何に使えるのかは使ってみないとわからないし、中身の仕組みも知っている方が使い道の発想も生まれるから、何事も学んでみたり使ってみたり作ってみたりするのはおすすめではある(が、まあそれも自分がそういうことに興味があって好きだからだとも思う。)

    行き過ぎについて言えば、社会としてはAIの倫理やルールを議論することは重要だが、ひとりひとりの人間の立場としては、問うべきは「人間を思考停止させないか」ではなく「自分が思考停止していないか」である。

    「10km続く道があって、そこにAIという自転車があるなら乗った方がいい」という倉嶌さんの例え話はわかりやすいし共感する一方で、本当はそう言われたから使うというのは、それこそ思考停止である。「10km先には何があるのか?」「どうして10km先に行きたいのか?」を考えてみることが大事だと思う。

  • リスタート

    2024年も6月になった。4月に書いていたように、5月は田んぼの作業と電気工事士の試験勉強と、もちろん仕事もおかげさまでいつも通りで忙しく予想通りにブログを書く時間と心の余裕がなかった。

    田んぼをつくるところから始まった田植えもおおむね無事に終わり(といっても、田植え機で植えられなかった場所を手で植えていく補植という作業はまだやっているが)、電気工事士の試験もひとまず学科試験は自己採点では無事合格できた(こちらも次は7月に技能試験がある)。

    家の周りの石積みも一段落。できたスペースに収穫までに米を保管できる小屋を作りたい(が間に合うかはかなり怪しい気もしている)。

    せっかく電気工事士の勉強もしたし、暑くなる前にソーラーシステムも稼働させたい。というかもともと車を買い替えるときにPHEVにしたのは、日々の送り迎えや買い物の移動くらいはソーラーで賄えたらと思ったからで、一通りの機材も購入済みなのであとはやらないともったいないだけである。

    昨日はこのブログをはじめるきっかけになった柿次郎さんの「風の新年会」つながりの人たちが御代田のCORNER SHOPに集まったのもあって、改めて日々の投稿もリスタートしようと思う。続くかな。

  • HACS

    最近、技術哲学と呼ばれる領域に関わる方々とお話しする機会が何度かあって、HACSというモデルに興味を持っている。

    HACSとは「階層的自律コミュニケーション・システム」の略で、提唱された基礎情報学の西垣通さんの言葉を紹介しつつ詳細は省くが、共同体やコミュニケーションを「自律システムの階層構造」として考えようというのがその肝だと思う。

    話を聞くにつれこれは面白いなと思っているものの、まだちゃんと理解出来ていないかもしれないし上手く伝えられる気もしないが、ひとまず自分なりの理解を書き留めておく。


    まず、人間は自ら生きる自律システム(生き物)である。と同時に上位の自律システム(社会とか共同体とか)をつくる。

    また、それぞれの自律システムは、何らかの価値観をもつ。

    生き物(という自律システム)の価値観は生きることである。すなわち、生きられることが意味や価値である。

    そして、上位の自律システムにも、それぞれの価値観がある。例えば、「法」というシステムなら合法か違法かに意味や価値があり、「科学」というシステムなら真か偽かに意味や価値があり、「経済」というシステムなら得か損かに意味や価値がある、とか。

    もっと小さなシステム、例えばコミュニティやプロジェクトにも、いい/悪いとか成功/失敗とか、あいまいかも知れないが、それぞれの自律システムとしての何らかの価値観が自ずと生まれる。

    そして、法のような一見揺らがなそうな価値観も、はじめから決まっていた訳ではなく、下位システムとしての人間があくまで自律的に関わりながら、徐々に出来ていったり変わっていったりしたものである。(日本人女性初の弁護士を描いた話題の朝ドラ「虎と翼」は、まさにそうしたことを気づかせてくれるドラマと言えるだろう。)

    ここで大事なのは、上位システムの価値観が強固になると、つまり上位システムが自律的になればなるほど、実は下位システムは自律的でなくてもよくなる、というということ。むしろそうなるように上位の自律システムをつくるとも言えるので、ここには「他律的でいられるように自律的に関わる」みたいな矛盾がある。「人間は考えなくていいように考える」みたいな話にも近い。

    例えば、法という上位システムが強固なものになると、下位システムとしての人間はただそれに従うようになり、そもそも法という上位システムが自律的につくられたことを忘れてしまう。そうなってしまうと、下位システムはもはや上位システムに従うAIやロボットでいいということになり、人間がAIと比べられてしまうような状況になる。

    上位システムから見たら下位システムは他律的な存在だが、下位システムはあくまで自律的に上位システムに関わる。本来、人間という自律システムは、そのように両義的な関係にあるいろんな上位の自律システムを介して、他者と関わりながら生きているのであり、そうである限りAIと比べられる不安はないはずだ、ということになる。

    いわゆる社会的な情報伝達というのは、上位の社会システムのなかでデータがやりとりされて意味内容が形式的に交換され、人間はそこであたかも他律的機械のような役割を果たすからこそ可能になるのだ。そこでの役割はAIとまったく同じである。だが肝心なのは、社会的観察のもとで共時的には他律的に振る舞う人間も、心の中ではあくまで自律的な意味形成をおこなっており、通時的・長期的には社会のメカニズムを変革できる、という点である。一方、非APSのAIは単なるメディアであり、そんなことはできない。

    コンピューティング・パラダイムのもとで実行されるデジタル化では、AIと人間は区別されない。すると人間は機械部品化され、ハイデガーの懸念した「総かりたて体制(Gestell)」に組み込まれていく。基礎情報学はその地獄を避けるための知なのだ。

    思想の言葉 “情報伝達”を革新する 西垣通(『思想』2023年5月号)より

    確かに、関わって一番面白いのはまさに上位システムがつくられている過程という感じがする(たんぽぽの家とのArt for Well-beingプロジェクトもまさにその最たるものだ)。ただ、そうやって自律的に関わってできた上位システムを、上手くいったからといってただ他所に持っていくだけでは同じようには上手くいかないのも当然だ。そして、多くの人が他律的に受け身で関わることに慣れて自律的に関わろうとしないような状態の上位システムも多いとも思う。さてどうしたものか。

    ただ一方で、どんなに強固で変わらなそうに思える上位システムも、根本的に生きている自律システムである人間が関わっている限り、いつでも変わる可能性があるとも思う。

    最近見たいくつかの展示、例えばミッドタウンデザインハブの「PROGETTAZIONE (プロジェッタツィオーネ)」や、グッドデザイン丸の内の「山と木と東京」など、まさにたくさんの人が自律的に関わりながら上位の自律システムが生まれていくようなプロセスを興味深く見ながら、HACSの話を思い出して自律と他律の両義性をどうデザインすべきかを考えていた。

    そして、拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』で書いたことも、まさにそうした自律と共生のバランスの話でもある。

    ちなみにHACSにおける自律システムとは、自分で自分をつくるオートポイエティックシステム(APS)なので、AIだろうとロボットだろうとテクノロジーは自律システムではなくあくまでメディアである、と考えるらしい。

    HACSとコンヴィヴィアル・テクノロジーについてもそれだけでいろいろ書くことはありそうだが、とりあえずいったんこの辺りにしよう。