• Garbage in, garbage out

    週末は移住した御代田のコワーキングスペースGokalabでトークイベントだった。

    Gokalabは、メンバーを「研究員」と呼んで、今回のような勉強会を開催したりと、単なるコワーキングスペースに留まらないユニークな場である。

    今回『コンヴィヴィアル・テクノロジー』を読んでオファーいただいた倉嶌洋輔さんもGokalab研究員で、企業にAI導入のサポートや研修などをされているAIコンサルタント。『AI時代のキャリア生存戦略』という本を書かれているということもあってAIと仕事の話を中心にしつつ、子育て世代の方も多いということで、教育についてもテーマに加えましょうということになった。

    僕の本は、AIに限らないテクノロジー全般、道具と人間の関わりについて考えていて、今回もまずこれまでの仕事を紹介したあといつものように、不足と過剰の二つの分水嶺の間に留まる「ちょうどいい道具」とは?そのための「6つの問い」とは?といったイントロをしつつ、(きっと明日から仕事で使えるような話は倉嶌さんがしてくださるだろうと思ったので)なるべく具体例としては仕事以外の話を紹介することにした。

    最初はリサーチやインプットについての話題で、いきなり唐突だったが、たまたま最近の例として、僕が以前からフォローしている量子物理学者の方の投稿がわからな過ぎてChatGPTに聞いてみた話を紹介した。詳細は省くが、一見1ミリも意味がわからないようなことも、「分かりたい」という気持ちがあれば、AIがなんとかその間を埋めてくれるのがよいところである。

    次に、倉嶌さんからコンピュータサイエンスでよく使われる「Garbage in, garbage out」、つまり入力の質が出力の質を決めるという話があり、これもちょうど最近息子の宿題でChatGPTを使ってみた話をした。

    息子は最近中学の国語の授業で枕草子をやっていて、自分が身の回りで趣き深いと感じることを枕草子風に表現してみるという宿題が出たという。

    そこで、息子は「空港で飛行機が次々に飛び立っていくところ」が思い浮かんだらしく、話しながら枕草子風にするとどうなるかChatGPTに聞いてみようということになった。

    まずそもそも、飛行機が次々に飛び立つ様子を枕草子の情景に選ぶセンスがとても面白く、もうその入力の時点ですでにいいので出力も面白いものになる。(ちなみに息子は結局それも参考にしつつ自分なりの言葉で書いていた。)

    また、ChatGPTのようなLLMは、その仕組みから入力と出力の関係があいまいでもうまくその間を繋ぐことが得意で、簡単な例として、言葉を天気の絵文字で表すという例を紹介した。

    雨、晴れ、薄曇り、小雨、、といった多様な表現を限られた天気の絵文字のどれかに当てはめられることはもちろんだが、例えば、「涙」なら🌧(雨)に、「楽しい」なら🌞(太陽)に、「夢」なら🌌(星)にといった具合に、どんな表現でも一番相応しい絵文字に当てはめてくれるのだ。(これをデータベースと検索で実現しようとしたらかなり大変である。)

    さらにその応用例として、以前作ってみた御代田町ゴミ出しGPTの話をした。いつまで経ってもゴミ出しルールをなかなか覚えられないので、ゴミ出しの質問に答えてくれる自分用のChatGPTを作ったのだ。

    元々御代田町にはオープンデータを使ったゴミチェッカーというページがあり、そのデータを学習させることで分別方法やゴミ出しの日を教えてくれるAIである。「次の可燃ゴミの日は?」という質問はもちろん、「梱包材は?」と聞けば素材毎の出し方を教えてくれ、「丸ノコの刃」なら刃を包んで刃物と表記、といった注意もしてくれる。もちろん100%正しいとは言い切れないが自分で作って使う分には十分である。

    ちなみに、「これがほんとのGarbage in, garbage out」というオチを言いそびれたことが悔やまれる、、

    他にもいろんな話をしたが、結局今のところ生成AIも、やりたいことや向かいたい方向にある何かと現状の間を埋めてくれる道具の一つであり、仕事だろうと宿題だろうと、使うモチベーションが自分にあって、使えるのであれば使えばいいと思う。

    もちろん、新しい道具は何に使えるのかは使ってみないとわからないし、中身の仕組みも知っている方が使い道の発想も生まれるから、何事も学んでみたり使ってみたり作ってみたりするのはおすすめではある(が、まあそれも自分がそういうことに興味があって好きだからだとも思う。)

    行き過ぎについて言えば、社会としてはAIの倫理やルールを議論することは重要だが、ひとりひとりの人間の立場としては、問うべきは「人間を思考停止させないか」ではなく「自分が思考停止していないか」である。

    「10km続く道があって、そこにAIという自転車があるなら乗った方がいい」という倉嶌さんの例え話はわかりやすいし共感する一方で、本当はそう言われたから使うというのは、それこそ思考停止である。「10km先には何があるのか?」「どうして10km先に行きたいのか?」を考えてみることが大事だと思う。

  • リスタート

    2024年も6月になった。4月に書いていたように、5月は田んぼの作業と電気工事士の試験勉強と、もちろん仕事もおかげさまでいつも通りで忙しく予想通りにブログを書く時間と心の余裕がなかった。

    田んぼをつくるところから始まった田植えもおおむね無事に終わり(といっても、田植え機で植えられなかった場所を手で植えていく補植という作業はまだやっているが)、電気工事士の試験もひとまず学科試験は自己採点では無事合格できた(こちらも次は7月に技能試験がある)。

    家の周りの石積みも一段落。できたスペースに収穫までに米を保管できる小屋を作りたい(が間に合うかはかなり怪しい気もしている)。

    せっかく電気工事士の勉強もしたし、暑くなる前にソーラーシステムも稼働させたい。というかもともと車を買い替えるときにPHEVにしたのは、日々の送り迎えや買い物の移動くらいはソーラーで賄えたらと思ったからで、一通りの機材も購入済みなのであとはやらないともったいないだけである。

    昨日はこのブログをはじめるきっかけになった柿次郎さんの「風の新年会」つながりの人たちが御代田のCORNER SHOPに集まったのもあって、改めて日々の投稿もリスタートしようと思う。続くかな。

  • HACS

    最近、技術哲学と呼ばれる領域に関わる方々とお話しする機会が何度かあって、HACSというモデルに興味を持っている。

    HACSとは「階層的自律コミュニケーション・システム」の略で、提唱された基礎情報学の西垣通さんの言葉を紹介しつつ詳細は省くが、共同体やコミュニケーションを「自律システムの階層構造」として考えようというのがその肝だと思う。

    話を聞くにつれこれは面白いなと思っているものの、まだちゃんと理解出来ていないかもしれないし上手く伝えられる気もしないが、ひとまず自分なりの理解を書き留めておく。


    まず、人間は自ら生きる自律システム(生き物)である。と同時に上位の自律システム(社会とか共同体とか)をつくる。

    また、それぞれの自律システムは、何らかの価値観をもつ。

    生き物(という自律システム)の価値観は生きることである。すなわち、生きられることが意味や価値である。

    そして、上位の自律システムにも、それぞれの価値観がある。例えば、「法」というシステムなら合法か違法かに意味や価値があり、「科学」というシステムなら真か偽かに意味や価値があり、「経済」というシステムなら得か損かに意味や価値がある、とか。

    もっと小さなシステム、例えばコミュニティやプロジェクトにも、いい/悪いとか成功/失敗とか、あいまいかも知れないが、それぞれの自律システムとしての何らかの価値観が自ずと生まれる。

    そして、法のような一見揺らがなそうな価値観も、はじめから決まっていた訳ではなく、下位システムとしての人間があくまで自律的に関わりながら、徐々に出来ていったり変わっていったりしたものである。(日本人女性初の弁護士を描いた話題の朝ドラ「虎と翼」は、まさにそうしたことを気づかせてくれるドラマと言えるだろう。)

    ここで大事なのは、上位システムの価値観が強固になると、つまり上位システムが自律的になればなるほど、実は下位システムは自律的でなくてもよくなる、というということ。むしろそうなるように上位の自律システムをつくるとも言えるので、ここには「他律的でいられるように自律的に関わる」みたいな矛盾がある。「人間は考えなくていいように考える」みたいな話にも近い。

    例えば、法という上位システムが強固なものになると、下位システムとしての人間はただそれに従うようになり、そもそも法という上位システムが自律的につくられたことを忘れてしまう。そうなってしまうと、下位システムはもはや上位システムに従うAIやロボットでいいということになり、人間がAIと比べられてしまうような状況になる。

    上位システムから見たら下位システムは他律的な存在だが、下位システムはあくまで自律的に上位システムに関わる。本来、人間という自律システムは、そのように両義的な関係にあるいろんな上位の自律システムを介して、他者と関わりながら生きているのであり、そうである限りAIと比べられる不安はないはずだ、ということになる。

    いわゆる社会的な情報伝達というのは、上位の社会システムのなかでデータがやりとりされて意味内容が形式的に交換され、人間はそこであたかも他律的機械のような役割を果たすからこそ可能になるのだ。そこでの役割はAIとまったく同じである。だが肝心なのは、社会的観察のもとで共時的には他律的に振る舞う人間も、心の中ではあくまで自律的な意味形成をおこなっており、通時的・長期的には社会のメカニズムを変革できる、という点である。一方、非APSのAIは単なるメディアであり、そんなことはできない。

    コンピューティング・パラダイムのもとで実行されるデジタル化では、AIと人間は区別されない。すると人間は機械部品化され、ハイデガーの懸念した「総かりたて体制(Gestell)」に組み込まれていく。基礎情報学はその地獄を避けるための知なのだ。

    思想の言葉 “情報伝達”を革新する 西垣通(『思想』2023年5月号)より

    確かに、関わって一番面白いのはまさに上位システムがつくられている過程という感じがする(たんぽぽの家とのArt for Well-beingプロジェクトもまさにその最たるものだ)。ただ、そうやって自律的に関わってできた上位システムを、上手くいったからといってただ他所に持っていくだけでは同じようには上手くいかないのも当然だ。そして、多くの人が他律的に受け身で関わることに慣れて自律的に関わろうとしないような状態の上位システムも多いとも思う。さてどうしたものか。

    ただ一方で、どんなに強固で変わらなそうに思える上位システムも、根本的に生きている自律システムである人間が関わっている限り、いつでも変わる可能性があるとも思う。

    最近見たいくつかの展示、例えばミッドタウンデザインハブの「PROGETTAZIONE (プロジェッタツィオーネ)」や、グッドデザイン丸の内の「山と木と東京」など、まさにたくさんの人が自律的に関わりながら上位の自律システムが生まれていくようなプロセスを興味深く見ながら、HACSの話を思い出して自律と他律の両義性をどうデザインすべきかを考えていた。

    そして、拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』で書いたことも、まさにそうした自律と共生のバランスの話でもある。

    ちなみにHACSにおける自律システムとは、自分で自分をつくるオートポイエティックシステム(APS)なので、AIだろうとロボットだろうとテクノロジーは自律システムではなくあくまでメディアである、と考えるらしい。

    HACSとコンヴィヴィアル・テクノロジーについてもそれだけでいろいろ書くことはありそうだが、とりあえずいったんこの辺りにしよう。

  • 遅霜

    朝から東京へ。日中は暑いくらいの日も多い御代田も今朝はほぼ氷点下。例年5月に遅霜と呼ばれる冷え込みがあり、これを待たずに苗を植えると寒さに弱い作物はやられてしまう、と地元のいろんな人から聞く。温暖化(今年は世界平均気温がずっと観測史上過去最高を大幅に更新し続けているらしい…)にあって、例年通り遅霜がきたのはよいニュースなのかもしれない。

    最近は東京へは佐久平から新幹線に乗ることが多いが今朝は少し時間があり、近くのスタバで電気工事士の試験勉強。学校で習うような電気の知識というより図記号とか配線設計とか法規とか安全基準とか覚えることが多くてこのペースで間に合うかどうかだいぶ怪しい、、ただ、今週も建設現場に行くプロジェクトがあり、図面上の配線が読みとれたり、現場の担当の方と話が通じたりと早速仕事でも役に立っている。家のソーラー計画も必ずしも資格取らなくても出来る範囲だが、知っておいてよかったと思う知識も多い。あと今は本当にわかりやすいYoutubeチャンネルがいろいろあって助かる。

    ところで、時より耳に入ってくるスタバの接客は相変わらず流石だ。若い店員さんだがドライブスルーでやってきた常連さんらしき軽トラのおじいさんと遅霜の話をしている。マイタンブラーにコーヒーを手際よく準備しながら「うちも植えたサツマイモが心配で〜」とかとか。スタバはこれだけの規模になってもちゃんと生きている「人」が働いている感じがする。

  • 多忙な週末

    今年から本格的に関わっている稲作塾の田んぼ作業に、何の準備もしてないのにうっかり申し込んでしまった電気工事士の試験勉強に、夏にアメリカに旅行に行くかもなのもあって英語の勉強も。

    それから長いこと使っていた生ゴミ乾燥機が壊れたのでコンポストでもやるかとなり→調べ始めたらキエーロというのが簡単らしく→というかせっかくなら庭で畑もやるかとなり→畑の造成を始めるもその前にずっと中途半端になっていた石垣の造成と石積みをやりはじめ、それが出来たら空いたスペースに小屋も建てたいし、オフグリッドのソーラーシステムも作りたい、、家づくりも相変わらずいろいろやりたいことがある。

    そして、無事に第一志望の高校に受かった娘の高校生活が始まり、夜はいきなり難しくなった数学を一緒に解いたり。高校数学って初めからこんなに難しかったっけ?やり始めたら少し思い出してきてまだ何とか教えられるし、解けるとパズルが解けたような面白さはあるけど、さてどこまでついていけるか、、

    というわけで、4月に入って仕事の忙しさは落ち着いているものの、休日にやりたいことがたくさんあってとりあえずしばらくブログの更新は滞るかもしれない。

  • 共に生きるための

    昨夜は東京丸の内で大手金融機関の方々を中心にした勉強会に呼ばれてお話しした。本を書いて3年経ってもこうして本をテーマにトークイベントなどに読んでいただくのは嬉しい。

    昨日は、デザイン業界以外の方も多かったので、Takramの紹介、デザインとは?イノベーションとは?といった話から始めて、『コンヴィヴィアル・テクノロジー』の話を、プロローグの一番最初に書いている「何のためのイノベーション?」という問いから始めた。

     そして同時に、これからの時代には、そもそも何のためにイノベーションが必要なのかという視点も欠かせない。いまや、ビジネスマンはビジネスを成立させる力を儲かることだけに使っていればいい時代ではないし、エンジニアはテクノロジーの力を使って何でも実現させていい時代ではないし、デザイナーやクリエイターは人の気持ちや行動を変えることができるクリエイティビティの力を無自覚に使っていい時代ではないのである。

    (『コンヴィヴィアル・テクノロジー』プロローグ より)

    その上で、自立共生などと訳されるコンヴィヴィアリティという概念が、イリイチが「コンヴィヴィアリティのための道具」を書いてから50年のテクノロジーの変化を踏まえてなお重要であること。人間と人間、人間と自然だけでなく、人間とテクノロジーがいかに共に生きるかという視点。そのときに必要なデザインの視点。といった話をした。

    質疑の中で、最初の問い(何のためのイノベーション?)の答えは?という質問があった。この問いはあくまで本の出発点ではあるが、一言で答えるとすれば(イノベーションに限らず)「何のための」を突き詰めていくと、結局「共に生きる」ため、「共に生きる」には?というところに行き着くのではと思う。

    ただ「共に生きる」という言葉だけ聞くと、ちょっと宗教っぽいとか、理想主義的という誤解もあるかもしれないが、どちらかというと「共に生きざるを得ない」という感覚に近い。

    コンヴィヴィアリティとは「共に生きる」ことである。情報テクノロジーや気候危機やパンデミックなど、いずれにしてもお互いの自由がグローバルに複雑に干渉し合う時代において、言ってみれば「共に生きざるを得ない」状況の中で、自由の相互承認の対象としての「わたしたち(We)」はどこまで拡張できるだろうか。

    (『コンヴィヴィアル・テクノロジー』第6章 人間と人間 より)

    最近「生きのびるためのデザイン」という名著の新版が発売されて山崎亮さんの解説が素晴らしいのでそれについても書きたいが、言ってみれば「共に生きのびるためのデザイン」「共に生きのびるためのテクノロジー」「共に生きのびるためのイノベーション」を考えたいのである。

  • 未来のヴンダーカンマー

    3月後半は久しぶりにブログを書く暇がない忙しさで土日祝日も仕事をしていたので、月末から数日休みを取って家族旅行へ。行き先は高校受験を無事に乗り切った娘のリクエストで決めつつ、その途中に前から行きたかった豊田市美術館へ立ち寄る。

    ちょうど今は、「未完の始まり:未来のヴンダーカンマー」という企画展が開催されている。

    絵画や彫刻に加え、動物の剥製や植物標本、地図や天球儀、東洋の陶磁器など、世界中からあらゆる美しいもの、珍しいものが集められた「ヴンダーカンマー(驚異の部屋)」。15世紀のヨーロッパで始まったこの部屋は、美術館や博物館の原型とされています。それは、見知らぬ広大な世界を覗き見る、小さいながらも豊かな空想を刺激する展示室でした。しかし、大航海時代の始まりとともに形成されたヴンダーカンマーには、集める側と集められる側の不均衡や異文化に対する好奇のまなざしも潜んでいました。

    グローバル化が進み、加速度的に世界が均質化していくなかで、今改めて文化や伝統とはなにか、また他文化や他民族とどう出会うかが問われています。かつて「博物館行き」は物の終焉を意味する言葉でしたが、5人の作家たちは、歴史や資料を調査・収集し、現代のテクノロジーを交えながら、時を超えた事物の編み直しを試みます。美術館の隣に新しくできる博物館の開館にむけて開催する本展では、文化表象の実践の場としてのミュージアムの未来の可能性を探ります。

    中でも気になっていたのは、田村友一郎さんの作品。実は以前僕が参加した21_21 DESIGN SIGHTの「”これも自分と認めざるをえない”展」の記録映像を撮っていただいたりといった縁があったりするのだが、いまや国内外で映像インスタレーション作品を手がけられ活躍されているアーティストである。

    今回の作品タイトルは、チタンの元素記号Tiとラテン語で骨を表すOSを組み合わせた「TiOS」。人間の身体と融合するチタンの骨(だから人工関節などに使われる)が、人間とテクノロジーの融合を象徴している。

    ガラスの砂でできたバンカーにチタンのゴルフクラブ。フラッシュが明滅するたくさんのiPhoneでできたUFOのようなオブジェ。チタンでできた骨の一部。それらのX線写真。ゴルフのティーグランドの奥に映像が映し出される六角形の空間。

    チタンの骨は、直立二足歩行を始めた最初期の猿人、ルーシーの骨の3Dデータから再現されたものだという。ルーシーという名は、たまたま研究者が発見時にビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」を聴いていたことから名付けられたらしく、映像ではAIで生成されたジョン・レノンが物語を語り、猿人ルーシーが今度はリュック・ベッソンの同名映画の超人的なヒロインになったりー。

    未来人や宇宙人は人間の骨と一体化したチタンを骨の一部だと思うだろうか。いや、もしかしたらチタンで出来たゴルフクラブさえ骨だと思うかもしれない。チタン製の最新のiPhoneを握りしめた人間はどこまでが人間だろうか。チタン化された私(TiMe)は時間(time)を感じるだろうかー。

    チタン、骨、ルーシー。一見関係なさそうなモノや概念を繋ぐ連想。言ってしまえば駄洒落やこじつけでもあるのだが、それらの関係性の中に本質らしき何かを見出してしまう。展覧会のテーマであるヴンダーカンマー(「博物館」のルーツ)も、偶然見つかり集められた過去の断片をインスタレーションによって繋ぎ合わせる空間であり、ルーシーのような偶然の発見が繋ぎ合わされた歴史の中にも、実はこんなこじつけや誤りがあるのかもしれないー。

    田村さんの作品は、考え抜かれ、細部までこだわり抜かれていると同時に、飄々としていて、シニカルで、ユーモアがある。今回も、チタン製の骨やiPhoneやゴルフクラブを産業用の非破壊検査施設でX線撮影したり、最初期の猿人ルーシーをイミテーションするのにミラクルひかるにオファーしていたり、宇宙船の大気圏突入から繋がる水切りの映像を撮るのに水切りチャンピオンを呼んだり、生成AIが作ったようなCGも豊田カントリー倶楽部で撮影されたドローン映像を元に作られていたり、、なんというか、真顔でやり過ぎている感じのこだわりと、それがまた笑ってはいけないような空気のある美術館に緊張感高くインスタレーションされているところにおかしみがあって面白い。

    他のアーティストの作品もそれぞれ魅かれるものがあったが、家族旅行の合間の限られた時間だったので目に焼き付けつつ、改めて図録もじっくり読んでみることにしよう。

  • 2008年のエイプリルフール

    どんな写真でもLEGO化してしまう画期的なソフトウェアが開発された。20世紀を代表する写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンの名作『サン=ラザール駅裏』が見事にLEGO化されている。

    https://flic.kr/p/3xXCXr

    その他にもLEGO化された歴史的な写真を多数見ることができる。

    …というエイプリルフールネタをmixiに(笑)書いたのが2008年。

    ちなみにこれらはもちろんAIが生成したものではなく、Mike Stimpson氏による作品で、改めて調べてみるとWIREDでも記事になっていた。

    この当時は、写真を見た瞬間に流石に嘘だとわかったと思うけれど、生成AIの登場でおそらくこれに近いことはもう本当に出来てしまうし、出来たとしてももはや誰も驚かないだろう。

    この写真には撮影時のメイキング写真も添えられているが、いまやこういう写真が添えられていないと本当に撮った写真と信じてもらえないし、なんならそれらしいメイキング写真すら作れてしまう可能性がある。

    改めて凄い時代になったものだと思う。

  • ON THE FLYと「未来のかけら」

    今日から21_21 DESIGN SIGHTで開催される企画展「未来のかけら: 科学とデザインの実験室」に久しぶりにON THE FLYを展示している。

    ON THE FLYとは、何の変哲もない紙のカードをテーブルの上におくと、カードの上に文字や映像が浮かび上がる、紙とデジタルメディアを融合したインターフェイスである。「on the fly」=「その場で/動的に/即興で」という名の通り、カードをテーブルのどこに置いても、すばやく動かしても、常に紙の位置にぴったり合わせた映像を正確に映し出すことができる、いわばインタラ クティブなリアルタイムプロジェクションマッピ ングである。また、動かした紙の位置を認識するだけでなく、紙に開けられた穴を指でふさぐことで、穴をスイッチ代わりにして表示されるコンテンツを切り替えることもできる。

    今回展示しているバージョンは、東京スカイツリーにある「千葉工業大学東京スカイツリータウンキャンパス」にも常設展示されているもので、ロボットの設計図が描かれた紙のカードをテーブルの上におくと、動くロボットの映像が紙の上の設計図にぴったり合わせて投影される仕掛けである。すぐ横に実物のロボットも展示されていたり、ロボットの3D設計図をぐりぐりと舐め回すように見ることができる壁面いっぱいを使ったプロジェクション展示もある。

    ON THE FLYを最初につくったのは2008年。YCAMで行われた「ミニマムインターフェース展」という展覧会の会場ナビゲーションとしてだった。スカイツリーのオープンも2012年なので、そこからでももう10年以上経つが、昨日の内覧会でもたくさんの人に驚いていただけて嬉しい限りだ。

    これまで、企業のショールームなどの常設展示や、百貨店でのサイネージ、さまざまなブランドのイベント(例えばDom Pérignonによる招待制のディナーイベントでは招待状をかざすとその人へのメッセージが表示されるなど)など、インタラクティブな展示システムとして国内外で利用していただいたが、コロナ禍でこうしたインタラクティブな展示の機会がなくなっていたので、久しぶりの展示の機会を頂けてありがたい。

    今回の企画展は、僕の師匠である山中俊治さんの東京大学での取り組みをはじめとする近年の活動の集大成とも言えるような展覧会であり、さらに今回の企画展のために生まれた研究者とクリエイターのコラボレーションによる新作もどれもとても興味深い。最先端の科学技術とデザインが出会うことで生まれる「未来のかけら」をぜひ見に行ってみて欲しい。

  • ひとが詩人になるとき

    工学系のバックグラウンドで人文系な仕事をしている人に惹かれる。内沼さんの本チャンネルで知った『ひとが詩人になるとき』の著者の平川克美さんもその一人。

    機械工学科のご出身で、起業家としても様々なビジネスを手掛け、オープンソース界隈ではリナックスカフェを作った方としても知られる。50歳を過ぎてから文筆家として『反戦略的ビジネスのすすめ』など独自のビジネス論を多数書かれてきたが、最近は「初めて、自由に、思う存分書かせてもらえるフィールドで、自分が書いてみたいことを書いた作品」だという「言葉が鍛えられる場所」という文芸エッセイシリーズを書かれていて、本書はその第3弾である。

    普段、詩どころか文芸というジャンルの本をあまり読まないのだが、そんな経歴の平川さんが書かれる(ビジネス論とは一番縁遠そうな)「詩とは何か?なぜ人は詩を書くのか?」という問いに興味をもった。平川さんが人生で影響を受けてきた詩人が、詩といかに出会ったか、そして平川さんがそうした詩人といかに出会ったかが書かれている。

    まず目次を見て、この人も詩人?と気になった章から読み始めてみた。「第12章 鶴見俊輔 この世界を生き延びるための言葉」。東日本大震災のあと、平川さんが当時ラジオパーソナリティをしていたというエピソードから始まる。

    震災直後、ただ呆然と「これから日本はどうなってしまうのか」と途方に暮れていた日本が戦後の焼け跡となった日本と重なり、終戦直後の日本をリアルに知る人として鶴見俊輔さんを番組のゲストに呼ぶ企画を立てたという。企画自体は実現しなかったとのことだが、そんな流れで紹介されている鶴見俊輔さんの言葉がとても響く。

    わたしの好きなことばに、レッドフィールドの「期待の次元と回顧の次元」というのがあるんです。いま生きている人は、こうなるだろう、こうすればああなるだろうと、いろいろな期待をもって歴史を生きてゆくわけですね。ある時点まで来て、こんどふり返るときは、もう決まっているものを見るわけだから、すじが見えてしまう。これが、回願の次元ですね。

    「敗戦体験』から遺すもの」より抜粋/『昭和を語る鶴見俊輔座談』所収

    平川さんはそれに続けてこう書いている。

    指導者たちが戦争を起こしたときに立っていたのは期待の次元です。一方、過去のことを現在の地点から見てあれこれ評論するのが回顧の次元だということです。

    明日がどうなるのか、よくわからない現実の中で考え、判断していたことを、その次元に立ち戻ることなくリアルに見ることはできない。だから、批評家や分析家はこのふたつの次元を混同せずに、ことが起こったときに自分が生きていた期待の次元にもう一度立ち返って過去と今を見ることが必要だと鶴見さんは説いたのでした。そうしなければ、自分たちがどの時点で、どうして選択を誤ったのかを反省することはできない。そして、本当の反省のないところに、新たな道を模索することは難しいということです。

    なるほど、私たちは常に期待の次元を生きています。それが、私たちの「現在」です。そして、過去の過失や誤りを振り返ることが必要になったとき、その過去の地点において自分が立っていた次元に立ち戻ることが必要だと鶴見さんは説いています。回顧ではなく、期待の次元に立ち戻る。それは一体どういうことを意味しているのでしょうか。

    なんだか先が見通しにくい今、過去を振り返って昔はこうだったと「回顧の次元」で語る前にそのときの「期待の次元」に立ち戻ること。たしかに忘れがちな視点だ。(手前味噌ながら昨日書いた311メモリーズも、まさにそのときの「期待の次元」が蘇るようなことを考えていた。)

    さて、そんな鶴見さんの書いた詩もとても興味深いが、、それはまたどこかで書くことにしよう。