• データとデザイン

    現実世界の現象や事象はどこから「データ」になるのだろう。例えば「大気の状態」という自然現象が「天気予報」のデータになるときを考えてみる。気圧センサーなら内部の素子が大気圧の変化でわずかにひずみ、それが電気抵抗値の変化として検出される。大気圧の変化という自然現象が抵抗値という数値に変換されるわけだ。この抵抗値もデータだがその数値自体には意味がないので、この抵抗値(Ω)が計算式によって大気圧の値(hPa)に変換される。この大気圧の値もデータだが、「天気予報」が知りたい人にとってはまだ意味や価値のあるデータとは言えない。過去の値や、周囲の値、温度湿度など他の値を組み合わせ、それらを膨大な過去のデータと照らし合わせたりすることでようやく天気予報と呼べそうなデータになる。

    それでもまだ、それを数字が並んだエクセルシートで見せられても困る。天気を分類してアイコンにしたり、地図上に配置したりすることでようやく見慣れた天気予報になるのだ。データは人がわかるかたちになってはじめて意味や価値があるのである。

    データをつくる側にも人がいる。例えば天気という自然現象をデータにする方法はセンサーに限らない。人工衛星を飛ばして宇宙から見たり、あるいはスマホのカメラで撮った空の写真を集めたり、そこには何かをデータにするための仕組みをつくる人がいるのだ。また、天気予報なら自然が相手だが、人の行動や心理や健康状態を扱おうと思えば、人の存在はより無視できない大きな要素となる。

    先日発売された、Takramの櫻井による初の単著『データとデザイン 人とデータのつなぎかた』は、タイトルにある通り、まさにそうした人とデータの関係をデザインするための本である。

    第1部「データのためのデザイン」は、どちらかといえばエンジニアに向けた内容と言えるだろう。上にも書いたように、データは集めればよいわけではなく、それをつくる人や使う人とつながることではじめて意味や価値が生まれる。そしてそのためにデザインの視点や手法が力になるのである。

    第2部「デザインのためのデータ」は、それに対してデザイナーに向けた内容と言えるだろう。デザインにとってもデータは重要なのだ。よりよいデザインのためにユーザーテストを行うこともデータの活用だし、たとえ自分の直感で判断しているとしても実はそこには経験という暗黙のデータがあるとも言える。また、インフォグラフィックやアプリのUIデザインなど、デザイナーがデータそのものをデザインする場面もあるだろう。

    そうしたデータと人の視点を行き来しながら進めていくデザインプロセスを本書では「データデザイン」と位置付けている。(ここでも振り子のメタファーが登場する)。もちろんエンジニアやデザイナーに限らず、あらゆる分野で、データを活用したいあるいはデータを扱わなければならなくなったという方にも有益な内容だ。

    ちなみに本書は、彼が数年前から温めていた本の企画を、拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』でお世話になったBNNの村田さんにご相談して、そこからTakramの編集者矢野さん、『統計学が最強の学問である』で知られる統計家の西内啓さんなどにも並走してもらいながら、丁寧に議論を重ねてまとめられた一冊である。そのプロセスを、自分も紆余曲折しながら執筆していた頃を思い出しながら横で見守っていたこともあり、ぜひ多くの人に手に取ってもらえたら幸いである。

  • 具体と抽象のあいだを観察する

    この日は伊藤亜紗さんのワークショップを見学。TakramではMark@という、それぞれのメンバーがもつ多様な専門分野を探求する自主的なグループ活動の仕組みがあり、この一つとしてU30のデザイナーを対象としたデザインコミュニティを運営するPark@という取り組みがある。第2期の今期のテーマは「観察」で、ちょうど今はゲストを招いたレクチャーとワークショップが行われている。

    亜紗さんのレクチャーワークショップのタイトルは「抽象と具体のあいだを観察する」。観察というと、朝顔の観察みたいに「具体」を観察するというイメージがあるが、観察という行為が「抽象と具体のあいだ」にあるという視点が面白い。

    まずは亜紗さんの専門領域である美学について。

    美学は哲学の兄弟。

    哲学は問いも言語、答えも言語。

    美学はすべてが言語にできるわけではないという問題意識がある。

    言葉にしにくいもの=感性や感覚、身体に関心がある。わからないけどわからないなりに考えたい。

    ここから本題の「観察」へ。まず牧野富太郎の植物画を見ながら参加者に問いが投げかけられる。

    この植物画からわかる「観察」の定義は?

    具体を表すこと?要素の分解?書き残すこと?などの答えが挙がるが、「これなんかへんじゃない?」とさらに投げかける亜紗さん。とても精緻に描き込まれた植物画を見ながら、自分が振られたら何て答えるかなあ、ずるいけど「いや、へんじゃない!」って答えはどうかなあ、、などと考えていたら、亜紗さんがこの絵を見た時に感じた違和感は「リアルすぎてリアリティがない」というものだったそう。(へんじゃないのがへん!)

    確かに図鑑に載る植物画は精緻だが、虫に喰われていたり、葉や花びらが欠けたりしていなくて、言われてみると完璧すぎる。つまりこの絵は、ある特定の種の植物の観察から見出された、抽象化された特徴が描かれたものなのだ。

    ここで、ロレイン・ダストンの『客観性』が紹介される。科学の代名詞のような、主観を排除した「客観性」という概念は実は19世紀頃に成立したものだという話。

    ちなみにこの本の訳者の岡澤康浩さんは解説でこれを「客観性ショック」と表現していて面白い。

    本書は、19世紀半ばに生じた「客観性ショック」と呼ぶべき一大事件を取り上げ、その衝撃を認識と視覚の歴史の中に位置づけ直す。本書が明らかにするところによれば、19 世紀になって主観性の排除として理解されるようになった「客観性」は、科学活動や科学の組織化を制御する理念として急速に受け入れられ、この新たな理念に導かれて科学的実践、科学的視覚、そして科学的主体さえもがラディカルに再編されていった。

    客観性の歴史とは、同時にその裏返しである主観性の歴史なのであり、(中略)客観性が科学を特徴づけるものとなるのに並行し、主観性は芸術を特徴づけるものとなっていく。そして、主観性が客観性に反するものとされるように、芸術もまた科学に反するものとして自らを定義し、そのあり方を再編成していく。

    Tokyo Academic Review of Booksというジャーナルにはより詳しい解説もある。

    さて、こうして主観と客観、具体と抽象の固定概念が揺らいだところで3つのワークに入る。

    最初のワークではたった2個の具体から抽象化はできることを体験する。お風呂とふとん=どちらも顔半分まで入るのが好き、とか。ねずっちのなぞかけも抽象化なんだな。(笑)

    何を拾い何を捨てるか。抽象は捨象とセットである。

    次のワークはわかりにくい抽象概念を身近なもので具体化する。身の回りのもので「ルネサンスっぽいもの」「バロックっぽいもの」をさがしてみる。ベンチとヨギボー?教室と校庭?整ったルネサンスと動きのあるバロック、みたいな特徴が見えてくる。抽象を具体にすると使えるものになる。

    最後のワークはメタファーの更新。

    レイコフの「Metaphors We Live By」が紹介される。コロナ禍を「戦争」と表現するか、パオロ・ジョルダーノのように「引越し」と表現するか。会議や議論もしばしば戦争のメタファーで語られるがそうではない新しいメタファーを考えるワーク。

    メタファーは飾りじゃない。世界や自分が置かれた状況を理解する枠組みであり、混乱した状況や捉え難い状況、危機的な時間から距離をとり、生き抜くための杖になる。

    最後のまとめ。

    抽象と具体のあいだを観察することで…

    1. 近すぎるもの(具体)を違う角度で眺める
    2. アクセスしにくいもの(抽象)を動かす
    3. 捨てているもの(捨象)を拾う

    非常に勉強になり面白かった。そして参加者に対する亜紗さんの傾聴する力と言葉の引き出し方がとても印象的なワークショップだった。

  • できる限りを尽くす

    ICCで開催中の坂本龍一トリビュート展の関連企画で、ともに坂本さんとコラボレーションしたことのある真鍋大度さんと岩井俊雄さんのアーティストトークに参加。

    真鍋さんは2017年に札幌国際芸術祭で環境の中の見えないものを可視化可聴化する「Sensing Streams」という作品でのコラボレーション。僕もモエレ沼公園に見に行ったが、今回ICCではそのアップデート版が見られる。

    岩井さんは1996年水戸芸術館の、今も語り継がれる伝説的なライブ 「MUSIC PLAYS IMAGES × IMAGES PLAY MUSIC」でのコラボレーション。僕は1998年頃に東大の「技術と芸術」という授業で岩井さんに出会い、その時に見たこのライブ映像や岩井さんの作品に衝撃を受けて、それがメディアアートを知りIAMASへ行くきっかけにもなり、その後もいろんな場面でお話しさせてもらって刺激を受けてきた。(IAMAS同世代のRhizomatiks真鍋さんや石橋さん含め、影響を受けた人は本当に多いと思う。)

    この日は、近年自身の作品のアーカイブプロジェクトにも取り組まれている岩井さんがその中で発掘された貴重な映像などを見ながら当時を振り返る内容だった。

    岩井さんと坂本さんとの出会いは偶然の繋がりとのことだったが、岩井さんは当時すでにZKMで「映像装置としてのピアノ」を制作されていたことや、坂本さんと会える機会を得た時にホテルにAMIGAを持ち込んでその場でデモをして、それが坂本さんからのオファーに繋がったという話は、出会うタイミングとチャンスを掴むための準備の大事さを改めて痛感させられる。(ちなみに「映像装置としてのピアノ」についてはYoutubeに詳しい動画がある。)

    それまで本格的なライブパフォーマンスの経験はなかったという岩井さん。しかも相手はYMOで一世を風靡していた世界の坂本龍一。さらに坂本さんの拠点はNYで当時はメール頼りのやりとり。そして一夜限りで坂本さんは前日入りという、まさにぶっつけ本番である。

    このライブを知っている人には今更言うまでもないが、この2時間のライブに音楽と映像の融合のアイデアが、どれもこの時代にどうやって作ったのかという完成度で、これでもかとたくさん詰まっている。それはこうした追い詰められた状況の中で、考えられる限り、できる限りの準備を、アイデアと技術の限界までとことんやり切ったからこそ生まれたのだと改めて思い知らされた。「できる限り」という言葉を普段何気なく(むしろ完璧は約束しないという意味で)使ってしまうが、ほんとうに「できる限り」を尽くすとはこういうことだよなあと、振り返って自分は「できる限り」を尽くせているかなあと自問させられた。岩井さんはいまだにライブ当日全然準備が出来てなくて焦る夢を見るらしく、ある意味トラウマになるくらいやりきったからこそこの作品がいまだに輝きを放ち続けているのだなとも思った。

    もちろん、コンピュータやデジタル技術の黎明期でテクノロジーを使って出来ることも限られていたから可能性を掘り尽くすことができた、いまは出来ることがありすぎてそれが難しいといった言い方もあるが、それはきっと違う。インスタレーションにしろAIにしろXRにしろ、メディアテクノロジーの可能性を掘り尽くす道は常に開かれているはずで、自分の中に少し眠っていたそうしたことへの興味に火をつけられてしまったような気もする。

    もう一つ、坂本さんが、2時間のライブを実験的な音楽に振り切ることもできたが観客の期待に応えて名曲を織り交ぜることも意識されていたという話や、一夜限りのライブを翌年きちんと興行として東京公演という形に展開した話など、エンターテイメントとアートのはざまを意識していたという話も印象的だった。これはメディアアートの文脈だけでなく大人から子どもまでを魅了する岩井さんの作品にも、その後「ウゴウゴルーガ」や「100かいだてのいえ」など、メディアアートの枠にとどまらない活動にも繋がっている。(これも言うは易しで一番難しいのだが。。)

    自分をメディアアートの世界へ誘ってくれた人でもあり、30年近く経っても未だ高くそびえ立っている越えられない壁のような人でもある岩井さん。最後に「(これくらいでいいかなとブレーキをかけずに)ここまでやり切れた理由は?」という質問をさせてもらったが、岩井さんは「坂本さんに下手なものは見せられない」とその存在の大きさを挙げていた。僕もいまちょうど久しぶりに大きなインスタレーションに取り組んでいるが、「岩井さんに下手なものは見せられない」という気持ちで自分なりに「できる限り」を尽くしてみようと思う。

  • 芸術衛星

    開発に関わった芸術衛星ARTSAT:1 INVADERの打ち上げから10年経ったことを知る。…(執筆中)

  • 楽観と悲観の振り子

    久しぶりに東大本郷キャンパスへ。東大とソニーによる「越境的未来共創社会連携講座(Creative Futurists Initiative)」のキックオフシンポジウムに参加。

    講座名にもあるように、シンポジウムも専門性の「越境」がテーマだった。前半は実際にこの講座に関わられる方々のお話し(中心となって進められる筧さん、テクノロジーに潜むバイアスを研究する田中東子先生、戦争や災害のデジタルアーカイブ渡邉英徳先生、デフレーミング戦略高木聡一郎先生、ソニーサステナビリティ推進部からシッピー光さん)、後半はまさに越境を体現されてきた方々による基調講演とパネルディスカッション(ソニーCSL北野宏明さん、僕の師匠である山中俊治さん、林香里先生、ソニー戸村朝子さん)と盛りだくさんだったが、個人的に印象に残ったのは、東大副学長林香里先生の、工学と人文社会学の越境についての言葉だった。

    メディア・社会学研究者として、工学の先生方とお話しをしていて、工学の先生方は、自分の開発しているテクノロジーが「よいことだ」とかなり確信をお持ちの先生が多いんです。他方で、人文社会系の研究者は、特に近代、「人類は大変悪いことをした、大変間違ったことをした」という深い反省の中に生きているんです。だから自分がやっている研究さえも、これは正しい道なんだろうかと常に悩み、このまま進んでいいのかもわからなくなるようなところがある。

    (工学系の)非常に楽観的なテクノロジーへの感覚と、(人文系の)非常に悲観的な近代の歴史をこの21世紀にどうやって融合して、越境的未来の共創していくかというところに立っていると思います。

    もちろんすべてにこの図式が当てはまるわけではないが、そう言われてみるとデザインエンジニアとして自分がやっていることも、デザインとエンジニアリングの越境ではあるのだが、実はどちらも「何かをよくする」といった楽観的でポジティブなマインドが根底にはあり、それはある種工学系のバイアスなのかもしれないと気付かされた。(デザイナーとエンジニアという)振り子を振っているようで、振れていない振り子もあるというか。

    近年、デザインの領域でもクリティカルデザインやデザイン人類学が注目されたり、テクノロジーの領域でも、AI倫理や技術哲学など人文社会学的視点が取り入れられつつあることの背景に、こうした根底のマインドの違いがあるというのはもっと意識されてもいいのかもしれない。

    とはいえ、Creative Confidenceという言葉があるように、何かをつくるときには、ある種の楽観性や根拠のない自信がないと進められないところもある。

    シンポジウムの中で、北野さんは(共創するにしても)一人の人間の中に越境性をもつことは必須だといい、山中さんは、ただし越境する複数の視点を同時に持つことはできず、だからこそ振り子をふるように行ったり来たりする必要があるとも話していた。(Takramでも昔から振り子のメタファーはよく使う。)

    悲観的批評と楽観的創造にも同じことが言えるんじゃないだろうか。楽観と悲観を同時に存在させようとするとたぶん何もできなくなる。とはいえテクノロジーもアートもデザインも楽観だけで進んでいい時代でもなくなりつつある。楽観と悲観の振り子をどんなタイミングで振るのかが「越境的未来共創」の鍵なのかもしれない。

    もう一つ、今回の社会連携講座のパートナーであるソニーのパーパス「クリエイティビティとテクノロジーの力で世界を感動で満たす」に「感動」という言葉が入っていることも大事なポイントだと思った。個人的に繋がりのあるソニーの方々にも、どんな立場の方であれ文化や創造性のような部分を大事にしていると感じることが多い。大企業ほど、いわゆるSDGs的な(何か言っているようで何も言っていないような)優等生的なパーパスになりがちな中で、こうした言葉を入れることはとてもユニークなところだと思う。今回のテクノロジーとアートとデザインの越境が、課題と解決だけでなく「感動」に繋がることも期待したい。

  • なみのダンスとMR②

    前回からの続き。MR(Mixed Reality)で「水」を表現するには?踊りたくなる?音楽になる?新しい表現が生まれる?そもそも流体シミュレーションはQuest3でまともに動くのか?さて、どうしたものか。

    こうした作品に限らず、何かつくるときに個人的に意識していることを改めて言葉にするなら「出来るからといってやり過ぎないこと」と「一つのアイデアに丁寧に向き合うこと」と言えるかもしれない。

    エンジニア的には、あるテクノロジーを使い始めて出来ることがわかると、ついもっとやりたくなってしまう。例えば物理シミュレーションやモーションキャプチャなら、現実をできるだけ忠実に再現しようとしてしまいがちなのだ。でもよく考えてみれば、シミュレーションで現実を忠実に再現したら、それはもう現実でよくないかという話になる。

    以前アスリート展で展示した「Athlete Dynamism」は、幅跳びや棒高跳びや体操など、アスリートの動きのモーションキャプチャデータを使った作品だが、やろうと思えばアスリートをCGでリアルに再現することもできる。だがそれなら本物のアスリートの映像を見ればいいという話である。そこを引き算して少ない点の動きの軌跡だけを表現することで、逆にアスリートの動きの美しさや凄さを見せたい。ただその時の引き算のさじ加減はとても難しい。床もなく空中に軌跡だけが描くのはどうか、床面はやはり必要か、いや陸上トラックのレーンを思わせる線も必要か、でも陸上トラックを全部再現するのはやりすぎか、など実際につくりながら自分なりのギリギリのバランスを見極めていく。

    そして同時に、現実ではない表現だからこそできることを考えていく。この時は、スクリーンの前のiPadで視点をグリグリ動かせるようにした。すると例えば地面の下から見上げるといった、現実では不可能な視点からの体験も可能になる。

    さらにその上で、このシンプルな一つのアイデアに丁寧に向き合ってインターフェイスやインタラクションを考える。近づいてきた来場者が説明なく迷わず操作できることを確認しながら、一方で人が立ち去って誰もいなくなったらそのままにならずに一定時間で自動で切り替わるモードになるなどの工夫をしていく。ここはやっていくとどんどん工夫に気づかれなくなる領域でもある。

    「みずのダンスとMR」の話に戻る。水もリアルな水を目指せば目指すほど、だったら本物の水を使えば?という話になる。そうではなく、佐久間さんたちが水にこだわってきた理由を改めて考え、その一つとして「波」という要素に着目してみることにした。水の全てをシミュレーションすることはできなくても、水面の波の表現であればQuest3で動きそうでもある。ゴーグルをかぶると水面が現れ、水面に触れると波紋が広がるイメージができた。

    同時に「現実では起こり得ない表現」を考える。水面に触れるたびにいろいろな音が鳴るのはどうか。昨年の「かげのダンス」でもVR空間内にあるオブジェに触れると音が鳴るようにしたが、佐久間さんから触れるか触れないかだけでなく優しく触れるか強く触れるかで音が変わって欲しいというフィードバックももらっていた。波はまさにそんな表現にもぴったりである。

    さらに、音楽を担当する松井さんから、触れた時だけでなくそれが一定間隔でリフレインするのはどうかというアイデアももらい、水面に触れることで音楽が生まれるような作品が生まれた。

    手応えを感じつつ、最終的な目標は、作ったアプリを試してもらうだけでなく、全体がパフォーマンスとして表現に繋がること。再びたんぽぽの家での実験もしながら「本番」を迎えることになった。

    つづく。

  • なみのダンスとMR①

    昨年から関わらせてもらっているArt for Wellbeingプロジェクトで再び奈良のたんぽぽの家へ。

    前にも書いたように、これは障害者のアート活動をテクノロジーでサポートするための取り組みではない。表現とケアとテクノロジーがお互いに作用しあうことで、新しい表現、新しいケア、新しいテクノロジーが生まれる可能性を探る共同研究のような取り組みだと思っている。どこに向かうのかわからないところから、表現とケアとテクノロジー、それぞれが持っている可能性を持ち寄って、感じた小さな気づきをキャッチボールしながら育てていく感じがとても面白く、今年も継続して参加させてもらっている。

    昨年、たんぽぽの家の皆さんとジャワ舞踏家の佐久間新さんが取り組んできた「かげのダンス」のパフォーマンスを見せてもらったことがきっかけになって出来たが「CAST かげのダンスとVR」だった。

    今年は、それを振り返りながらどう次に繋げていくかを話し合うところから始め、実験やディスカッションを重ねて辿り着いたのが「WAVE なみのダンスとMR」である。

    テクノロジー側のアップデートとしては、Meta Quest3が発売されて、(完全に現実と切り離された別の世界に入る)いわゆるVRではなく、(ゴーグルをつけても周りが見えていて現実世界に演出やコンテンツを重ね合わせる)MR=Mixed Realityが出来るようになった。「MRを使って何が出来るか」というのがテクノロジー側から持ち寄った新しい可能性の種だ。

    また、ハンドトラッキングの精度も上がったので昨年使ったコントローラーも使わないで済むようにもなった。

    そこでまず、ゴーグルを被ると今いる部屋の中でキューブが宙に浮いていて、手で掴んで投げられるようなものを作って試してもらった。

    面白がってもらえたが、あるたんぽぽメンバーの方から、サッカーみたいにゲームやスポーツにしたら面白いというコメントがあって、なるほどと思いつつ、これはちょっと違うかもしれないと思った。

    ゲームにはルールやゴールがあり、上手く出来るとか出来ないとか、成功と失敗、勝ち負けが生まれる。そこがゲームの持つ可能性で面白いところだが、今回やりたいのはそこではなく、表現とケアとテクノロジーの可能性を探ること。新しいテクノロジーが新しい表現を生むような関係、表現者として表現したくなる、踊り手として踊りたくなる、といったところを目指したい。その感覚は佐久間さんとも一致していた。

    もう一つ、長年いろんな場面でコラボレーションさせてもらっていて昨年もサウンドデザインで参加してもらった松井敬治さんに、今年はこうした振り返りやディスカッションから参加してもらった。最終的に作り上げるものが音楽になる、というのも今年目指したいところだ。

    それからしばらくして、佐久間さんから今年は「水」をテーマに出来ないかという提案があった。佐久間さんがたんぽぽの家と長年続けられてきた取り組みでも使われてきた「水」は、昨年見せてもらった時にも、大きなたらいに水が注がれるといった舞台演出だけでなく、半分ほど水が入ったペットボトルを手に持って中の水の揺らぎを感じながら踊るだけでも踊りが変わるといったように、ダンスパフォーマンスの触媒として効果的に使われていた。「水」というのがダンスの側からである。

    踊り手の側から持ち寄られた可能性の種としての「水」をMRにどう取り入れてどう表現できるか。それが踊りたくなるものになり、どんな音楽になるか。自分では思いもしなかった要素が持ち込まれることはチャレンジでもあるが、それこそがコラボレーションの醍醐味でもある。

    つづく

  • 無題

    なんとなく今年に入って始めたブログ。いまのところ概ね平日毎日書くペースで続けられている。

    敷居を低く、と設定したゆるめの目標が今のところはちょうどいい。

    例えば、1000字くらいになったら唐突に「つづく」で終わらせてもいい、とか。前に「読まない読書」という文章をnoteに書いたが、本も著者が数ヶ月とかかけて書いた内容を一気に読んでもなかなか理解が追いつかないので、残しておきたい内容が出てきたらとりあえずそこまでのことを書けばいい、とか。

    とにかく、日々SNSのタイムラインを眺めているだけだと、情報をインプットしているようであとから何も自分の中に残っていなかったりする。

    本を読んだりイベントに参加したりしても、面白かったなあで終わってしまうことも多い。そんなときに少しでも言語化しようとするだけでかなり違う。(昨日書いた「つくりながらわかる」感覚。)

    数日遅れでも後からその日に書いたことに出来るのもちょうどよい。世の中の出来事に脊髄反射的に反応するのではなくちょっと時間をおく。

    Xにリンクを貼ったり、写真をつけてInstagramやFacebookに同じ内容あげたりしてるが、SNSとの距離感はまだよくわからない。noteもどうするか。ブログにGoogle Analyticsつけてみると、アクセスの少なさに(始めたばかりだから当然だが 笑)プラットフォームってやっぱりすごいなとも思う。バズりたいわけではないけどまったく誰にも読まれないというのもそれはそれで続かない気もするし、いろいろ模索中。

    ちょうど流れてきた、インドで「君は仕事をしているかもしれないが生活をしていない」と叱られた、というnoteを読んで、文章を書くのは今の自分にとって「生活」の一部という感じがする。やりがいもあり面白い「仕事」に恵まれているが、日々の「仕事」に追われていると確かにどんどん時間が過ぎ去っていく。何かのためにやるのでない「生活」も大事にしたい。

    最近ちょっと力を入れすぎて文章が長くなってきた気がするので、今日は「タイトルをつけないくてもいい」という新ルールを追加してみることにして、この辺で終わりにしよう。

  • 民俗学と編集

    先日書いた『実験の民主主義』の若林恵さんと民俗学者畑中章宏さんの『『忘れられた日本人』をひらく 宮本常一と「世間」のデモクラシー』のトークイベントにオンラインで参加。モデレータは情報環世界研究会でもご一緒した桜井祐さん。

    畑中さんと若林さんは平凡社で先輩後輩の関係だったとのことで、お互いよく知る者同士の突っ込んだ話が面白かった。(以下、聴きながらのメモなので聞き間違いや勝手な解釈もあるかもしれない。)

    本をつくること自体が考えるプロセスで、それ自体に意味がある。

    編集の面白いところは、知らないことを知っていくプロセス。読者はそれを追体験している。

    「つくりながらわかっていく」プロセスというのは、自分も初めて本を書いてみて本当にそう思う。専門家としてすでに持っている知識をわかりやすく伝えるとか、情報を上から下へ流すみたいなことではないのだ。

    『実験の民主主義』の宇野重規さんのような学者や研究者も、本を書くことを通じて論文では書けない探索をやっているというのもなるほどと思った。

    宮本常一は、民俗学が学問として体系化していく中で、あえて「歩く」ことで体系化された調査では見えないものを見ようとした。そこには「傍流になれ」という渋沢敬三の影響がある。

    仮に、体系化された知の本流がアカデミアだとすれば、本や雑誌は傍流であり、民俗学にもそれに似たところがある、と。

    民俗学の中での柳田國男や折口伸夫と、宮本常一の対比も興味深かった。

    柳田や折口が民間信仰や霊魂といった(ある種オカルティックな)方向へ向かうのに対して、宮本はもっとブラグマティックで民具などのモノに向かう。例えば東北の「おしらさま」で言えば、宮本は、おしらさま信仰よりも、おしらさまに毎年重ねられていく絹の素性や起源の方に注目する。人の移動ではなくモノの移動を見る。

    なるほど。そして、話は民具から民藝の話に。

    民藝は民具を審美的な観点から回収していった。それが日本人の美に対する見方を規定して、正しさや倫理や規範にも結びつく。

    「美しいくらしをしているから美しいものが出来る」というような民藝の考え方への反発がある。

    この辺りの話もとても面白く、民藝の話は『工芸青花』の村上隆さんの生活工芸特集も思い出す。

    宮本常一は、文化を経済という視点で見ていた。文化と言うと勝手に出来ていくみたいだが、例えば建物の庇の長さもメンテナンスコストなど経済的な観点で決まっていたり、必ずしも美的な観点だけで決まる訳ではない。文化も物流や交易によって形成される部分が実は大きい。

    これはグレーバーの『万物の黎明』に通じる。物々交換から始まりやがて貨幣が生まれて、、という素朴な経済史観があるが、実は物々交換の証拠はいっこうに出てこない。近年は狩猟採集の時代から交易もかなり広域にしていたと考えられ始めている。

    デヴィッド・グレーバーの『万物の黎明』。机の上で重しになってるから読まねば。

    後半は歴史や時間の捉え方についての話に。

    起源をめぐる問いから如何に逃げるか。

    民間伝承は伝わるうちに話が変わる。フィクションを別のフィクションで置き換えても仕方ない。

    日本とは何か、日本人とは何かといった問いを解体する。日本文化論は成立しない。

    時間をどう捉えるか。(物々交換から貨幣経済のような)進歩史観からの脱却。

    「大きな人類史」は成功の歴史。農村の歴史は失敗の歴史。単線じゃなく、ぐるぐる回っていたり。如何に大きな物語に回収されないか。

    このあたりもとても共感できるところが多かった。

    最後の質疑応答もよかった。まず、宮本常一に強い影響を受けて東京から長崎まで歩きそこでアーティストをしているという方の「実践に繋がる話が聞きたい」という質問。

    編集者は実践に興味がないところがある。どちらかというと情報が好き。

    ただそれだけでは食っていけないから実践をやらざるを得なくなってきている。

    実践しない第三者だからこそ意味があるとは思いつつコンプレックスもある。

    次は宮本常一の墓前に墓参りをして起業したという方(画面に映ってなかったがYAMAP春山さん?)の「歩くことの身体性」についての質問。

    民俗学的には、いつでも立ち止まれたり、写真を撮れたりもするし、考えるのにも向いている。

    ソルニットの『ウォークス』みたいな話もあるが、例えば「車に乗る」ことの身体性もある。あまり「歩くこと」を神秘化、神格化しない方がいいんじゃないか。

    実践すること、歩くことだけが正解ではないというところがまた傍流的?視点で面白い。

    最後は「ビジネスへのヒントはあるか?」という質問。

    人が如何に環境や経済に埋め込まれているかを知ることが大事。物事は複雑な相互依存の中でしか存在し得ない。

    何がなくなったら自分の仕事は成り立たないか深く考えること。自分のやっていることの解像度を上げること。

    ステークホルダー資本主義といったりするのはそういうこと。

    どの質問も相互にクリティカルで、よい投げかけと返しだなと思った。

    興味はあったもののあまり詳しくない分野で、とても面白かった。本も事前に読む時間なく参加したので、『忘れられた日本人』と、その前にまずは『『忘れられた日本人』をひらく』を読んでみよう。

  • 空間コンピュータ

    オフィスにVision Proが届いたということで早速体験。初代iPhone発売の時もNYに住んでいた友人に買って送ってもらったのを思い出すが、今回もTakram NYメンバーに感謝である。

    正直あの時ほどのピュアな期待やワクワクがないのは自分が良くも悪くも年齢と経験を重ねたからかなあとも思いつつ、やはり届いたと聞くと体験したくて今朝は朝一でオフィスに出社した。(※尚、技適特例申請済み)

    グラフィックのクオリティは評判通り。既に体験した人が語っているようにAppleの作っているプロモーションムービーは確かに誇張ではない。

    リアル空間に置かれた物理ディスプレイを見ているのと遜色ない感覚で、これなら仕事も出来るなという感じ。(Quest3では流石に仕事する気にはならない。)

    そのクオリティでスクリーンを好きなように大きく出来る訳で、例えばホームシアターにお金をかけるような層にはリーズナブルに思えるかもしれない。個人的にも、値段はさておき欲しいかと言われたら素直に欲しいなと思ってしまった。

    すでにVision Proアプリの開発に関わっている人はわかると思うが、Meta Questとは設計思想がだいぶ違う。AppleがXR(VR/AR/MR)といった言葉を使わず「空間コンピュータ(Spatial Computing)」と言ってるのは、単にマーケティング戦略というより素直に目指している方向性の違いである。

    要するに、AppleはMacの「デスクトップ(ウィンドウが重なる2次元の画面)」メタファーの制約を取り払って、見渡せる空間上の好きなところにウィンドウを置ける、まさに「空間コンピュータ」を作りたかったのだと思う。

    例えば、アプリを作る時、空間に配置するオブジェクトには、Window、Volume、Immersive Spaceという3種類が規定されている。

    Windowは今まで通りの2次元のウィンドウ、Immersive Spaceはデスクトップでいえば全画面表示にあたる全空間表示、その中間的な存在として、奥行きをもったウィンドウとして箱状のVolumeという種別が規定されているのである。これは一つのアプリが空間全体を占有するMeta QuestなどこれまでのXRデバイスとは違う大きな特徴だ。

    そういう意味で使い方も想像しやすい。表示サイズが自由になり、視線と手元の指の動きで操作できるのは、老眼などで画面を見るのがきつい人やある種の障害のあるユーザーにとってアクセシブルなコンピュータになる可能性もありそうだ。

    ちなみに、エンジニアリング的には、iFixitが早速分解している動画を見ると、近年稀に見るパーツの多さと複雑さに(途中から説明放棄されて延々とConnector, Connector, Connector,…, Screw, Screw, Screw,…と呆れ気味のナレーションが続く 笑)よく量産したなと驚く。

    これからどう評価されるのか、普及するのか正直分からない(iPhoneの時もわからなかった)が、ひとまず期待外れではなかったという第一印象は残しておこう。