この日は伊藤亜紗さんのワークショップを見学。TakramではMark@という、それぞれのメンバーがもつ多様な専門分野を探求する自主的なグループ活動の仕組みがあり、この一つとしてU30のデザイナーを対象としたデザインコミュニティを運営するPark@という取り組みがある。第2期の今期のテーマは「観察」で、ちょうど今はゲストを招いたレクチャーとワークショップが行われている。
亜紗さんのレクチャーワークショップのタイトルは「抽象と具体のあいだを観察する」。観察というと、朝顔の観察みたいに「具体」を観察するというイメージがあるが、観察という行為が「抽象と具体のあいだ」にあるという視点が面白い。
まずは亜紗さんの専門領域である美学について。
美学は哲学の兄弟。
哲学は問いも言語、答えも言語。
美学はすべてが言語にできるわけではないという問題意識がある。
言葉にしにくいもの=感性や感覚、身体に関心がある。わからないけどわからないなりに考えたい。
ここから本題の「観察」へ。まず牧野富太郎の植物画を見ながら参加者に問いが投げかけられる。
この植物画からわかる「観察」の定義は?
具体を表すこと?要素の分解?書き残すこと?などの答えが挙がるが、「これなんかへんじゃない?」とさらに投げかける亜紗さん。とても精緻に描き込まれた植物画を見ながら、自分が振られたら何て答えるかなあ、ずるいけど「いや、へんじゃない!」って答えはどうかなあ、、などと考えていたら、亜紗さんがこの絵を見た時に感じた違和感は「リアルすぎてリアリティがない」というものだったそう。(へんじゃないのがへん!)
確かに図鑑に載る植物画は精緻だが、虫に喰われていたり、葉や花びらが欠けたりしていなくて、言われてみると完璧すぎる。つまりこの絵は、ある特定の種の植物の観察から見出された、抽象化された特徴が描かれたものなのだ。
ここで、ロレイン・ダストンの『客観性』が紹介される。科学の代名詞のような、主観を排除した「客観性」という概念は実は19世紀頃に成立したものだという話。
ちなみにこの本の訳者の岡澤康浩さんは解説でこれを「客観性ショック」と表現していて面白い。
本書は、19世紀半ばに生じた「客観性ショック」と呼ぶべき一大事件を取り上げ、その衝撃を認識と視覚の歴史の中に位置づけ直す。本書が明らかにするところによれば、19 世紀になって主観性の排除として理解されるようになった「客観性」は、科学活動や科学の組織化を制御する理念として急速に受け入れられ、この新たな理念に導かれて科学的実践、科学的視覚、そして科学的主体さえもがラディカルに再編されていった。
客観性の歴史とは、同時にその裏返しである主観性の歴史なのであり、(中略)客観性が科学を特徴づけるものとなるのに並行し、主観性は芸術を特徴づけるものとなっていく。そして、主観性が客観性に反するものとされるように、芸術もまた科学に反するものとして自らを定義し、そのあり方を再編成していく。
Tokyo Academic Review of Booksというジャーナルにはより詳しい解説もある。
さて、こうして主観と客観、具体と抽象の固定概念が揺らいだところで3つのワークに入る。
最初のワークではたった2個の具体から抽象化はできることを体験する。お風呂とふとん=どちらも顔半分まで入るのが好き、とか。ねずっちのなぞかけも抽象化なんだな。(笑)
何を拾い何を捨てるか。抽象は捨象とセットである。
次のワークはわかりにくい抽象概念を身近なもので具体化する。身の回りのもので「ルネサンスっぽいもの」「バロックっぽいもの」をさがしてみる。ベンチとヨギボー?教室と校庭?整ったルネサンスと動きのあるバロック、みたいな特徴が見えてくる。抽象を具体にすると使えるものになる。
最後のワークはメタファーの更新。
レイコフの「Metaphors We Live By」が紹介される。コロナ禍を「戦争」と表現するか、パオロ・ジョルダーノのように「引越し」と表現するか。会議や議論もしばしば戦争のメタファーで語られるがそうではない新しいメタファーを考えるワーク。
メタファーは飾りじゃない。世界や自分が置かれた状況を理解する枠組みであり、混乱した状況や捉え難い状況、危機的な時間から距離をとり、生き抜くための杖になる。
最後のまとめ。
抽象と具体のあいだを観察することで…
- 近すぎるもの(具体)を違う角度で眺める
- アクセスしにくいもの(抽象)を動かす
- 捨てているもの(捨象)を拾う
非常に勉強になり面白かった。そして参加者に対する亜紗さんの傾聴する力と言葉の引き出し方がとても印象的なワークショップだった。