• 2008年のエイプリルフール

    どんな写真でもLEGO化してしまう画期的なソフトウェアが開発された。20世紀を代表する写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンの名作『サン=ラザール駅裏』が見事にLEGO化されている。

    https://flic.kr/p/3xXCXr

    その他にもLEGO化された歴史的な写真を多数見ることができる。

    …というエイプリルフールネタをmixiに(笑)書いたのが2008年。

    ちなみにこれらはもちろんAIが生成したものではなく、Mike Stimpson氏による作品で、改めて調べてみるとWIREDでも記事になっていた。

    この当時は、写真を見た瞬間に流石に嘘だとわかったと思うけれど、生成AIの登場でおそらくこれに近いことはもう本当に出来てしまうし、出来たとしてももはや誰も驚かないだろう。

    この写真には撮影時のメイキング写真も添えられているが、いまやこういう写真が添えられていないと本当に撮った写真と信じてもらえないし、なんならそれらしいメイキング写真すら作れてしまう可能性がある。

    改めて凄い時代になったものだと思う。

  • ON THE FLYと「未来のかけら」

    今日から21_21 DESIGN SIGHTで開催される企画展「未来のかけら: 科学とデザインの実験室」に久しぶりにON THE FLYを展示している。

    ON THE FLYとは、何の変哲もない紙のカードをテーブルの上におくと、カードの上に文字や映像が浮かび上がる、紙とデジタルメディアを融合したインターフェイスである。「on the fly」=「その場で/動的に/即興で」という名の通り、カードをテーブルのどこに置いても、すばやく動かしても、常に紙の位置にぴったり合わせた映像を正確に映し出すことができる、いわばインタラ クティブなリアルタイムプロジェクションマッピ ングである。また、動かした紙の位置を認識するだけでなく、紙に開けられた穴を指でふさぐことで、穴をスイッチ代わりにして表示されるコンテンツを切り替えることもできる。

    今回展示しているバージョンは、東京スカイツリーにある「千葉工業大学東京スカイツリータウンキャンパス」にも常設展示されているもので、ロボットの設計図が描かれた紙のカードをテーブルの上におくと、動くロボットの映像が紙の上の設計図にぴったり合わせて投影される仕掛けである。すぐ横に実物のロボットも展示されていたり、ロボットの3D設計図をぐりぐりと舐め回すように見ることができる壁面いっぱいを使ったプロジェクション展示もある。

    ON THE FLYを最初につくったのは2008年。YCAMで行われた「ミニマムインターフェース展」という展覧会の会場ナビゲーションとしてだった。スカイツリーのオープンも2012年なので、そこからでももう10年以上経つが、昨日の内覧会でもたくさんの人に驚いていただけて嬉しい限りだ。

    これまで、企業のショールームなどの常設展示や、百貨店でのサイネージ、さまざまなブランドのイベント(例えばDom Pérignonによる招待制のディナーイベントでは招待状をかざすとその人へのメッセージが表示されるなど)など、インタラクティブな展示システムとして国内外で利用していただいたが、コロナ禍でこうしたインタラクティブな展示の機会がなくなっていたので、久しぶりの展示の機会を頂けてありがたい。

    今回の企画展は、僕の師匠である山中俊治さんの東京大学での取り組みをはじめとする近年の活動の集大成とも言えるような展覧会であり、さらに今回の企画展のために生まれた研究者とクリエイターのコラボレーションによる新作もどれもとても興味深い。最先端の科学技術とデザインが出会うことで生まれる「未来のかけら」をぜひ見に行ってみて欲しい。

  • なみのダンスとMR③

    前回からの続き。本番の動画やレポートは、プロジェクトのアーカイブにあるが、ギリギリまで調整をしながら迎えた本番の数時間は、Art for Wellbeingプロジェクトのテーマとして掲げられた「表現とケアとテクノロジーのこれから」という言葉、「表現とケアのためのテクノロジー」でもなく、「表現とケア」でも「表現とテクノロジー」でも「ケアとテクノロジー」でもないものを少し体現できたような気がした。

    プロジェクトの展覧会に寄せた文章を載せておく。

    昨年から関わっているこのプロジェクトは、表現とケアとテクノロジーがそれぞれ持っている可能性を持ち寄って、お互いの小さな気づきをキャッチボールしながら、それぞれの新しい可能性を探る共同研究のような取り組みだと思っています。

    今年はよりそのことを意識して対話と実験を重ねる中で、佐久間新さんが踊りの中で長年扱われてきた「水」に着目しました。舞台上の演出だけでなく、水が入ったペットボトルを持って中の水の揺らぎを感じながら踊るだけでも踊りが変わるといったように、水が体を動かすための触媒として効果的に使われていたのです。そこから、触れると波紋が広がる水面のようなインスピレーションが生まれ、また音楽家の松井敬治さんにも対話に参加してもらったことで、水面に触れると音が生まれ、それが音楽になるようなアイデアも生まれました。

    目指したのはゲームではなくダンス。プレイヤーではなくパフォーマーとして、勝ち負けではなく踊りたくなるようなもの。本番ではゴーグルをつけない演者も舞台で一緒に踊ったことでリアルとバーチャルの垣根がなくなり、また舞台袖からも私は水面の高さを、松井さんは音を操り一緒に参加できたこと。本番の数時間は、ようやく「テクノロジーを試してみる」という域を越えて「パフォーマンスが生まれた」手応えのようなものが少し得られたような気がしています。

    技術紹介

    Mixed Reality

    ゴーグルをつけた複数の人がリアルでもバーチャル空間でも同じ場を共有する仕組みは昨年から踏襲しつつ、今年はゴーグルをつけても周りが見えていて現実世界とバーチャル世界が重なるMR(Mixed Reality)という技術で何ができるかを考え、それが新しい可能性の種となってアイデアが広がっていきました。

    なみから生まれるダンスと音楽

    コントローラを用いず、手や頭を動かしてバーチャルな水面に触れることで波紋がうまれ、そのなみがお互いに影響しあってまた体の動きを引き出します。水面は触れると波紋が広がるだけでなく楽器のように音が鳴り、その音と波紋はリフレインしながら徐々に消えていきます。複数の人がその場で同じ水面に触れ、触れる動きによって音の強弱が変わり、音程や音色もランダムに変わっていくことで、なみのダンスからその場限りの音楽が生まれます。

    ライブパフォーマンス

    舞台上でゴーグルをつけると見える水面の高さは、舞台袖のPCからリアルタイムに変えられるようにしました。水面の高さが高くなったり低くなったりすることで舞台上のパフォーマーの動きもまた変わっていきます。さらに、動きから生み出される音に音楽家の松井さんがその場でエフェクトをかけることで、パフォーマーと音楽家の間にも即興的なやり取りが生まれました。


    そしてこの週末は、プロジェクトに誘っていただいたIAMAS小林茂さん、Qosmo徳井直生さん、東京大学筧康明さんと一緒に「表現とケアとテクノロジーのいま」と題したシンポジウムに登壇した。

    僕の関わっていたプロジェクトと並行して行われていた徳井さん、筧さんのプロジェクトもどちらも非常に面白く、ケアとテクノロジーの関係についての議論も有意義だった。徳井さんが開発しているAIオーディオ・プラグインNeutoneを使って、自分の声や物音を別の音に変換することで(音楽未満、単なる音以上の何かを表す)「音・楽」をつくるというコンセプトも、誰もが関われる余白のある音や音楽との新しい付き合い方として面白かったし、僕のプロジェクトでもここまで書いてきたようにケアする/されるの一方向の関係にならないようにということを意識していたが、特に筧さんのプロジェクトでは、最後の本番直前にそれまで動いていたデバイスが動かなくなってしまうというトラブルがあり、まさにそのときにテクノロジーの側が逆にケアされるような形で乗り切ることになったというのがとても示唆的で、印象的だった。(ただ、落ち込んで今も引きずっているという筧さんの気持ちも人ごとではなく、よくわかる…)

    「表現とケアとテクノロジーのこれから」にはまだまだいろいろな可能性があると感じた。そして、今年はこうしたこれまでの取り組みを広げていくことがテーマになりそうだ。

  • ひとが詩人になるとき

    工学系のバックグラウンドで人文系な仕事をしている人に惹かれる。内沼さんの本チャンネルで知った『ひとが詩人になるとき』の著者の平川克美さんもその一人。

    機械工学科のご出身で、起業家としても様々なビジネスを手掛け、オープンソース界隈ではリナックスカフェを作った方としても知られる。50歳を過ぎてから文筆家として『反戦略的ビジネスのすすめ』など独自のビジネス論を多数書かれてきたが、最近は「初めて、自由に、思う存分書かせてもらえるフィールドで、自分が書いてみたいことを書いた作品」だという「言葉が鍛えられる場所」という文芸エッセイシリーズを書かれていて、本書はその第3弾である。

    普段、詩どころか文芸というジャンルの本をあまり読まないのだが、そんな経歴の平川さんが書かれる(ビジネス論とは一番縁遠そうな)「詩とは何か?なぜ人は詩を書くのか?」という問いに興味をもった。平川さんが人生で影響を受けてきた詩人が、詩といかに出会ったか、そして平川さんがそうした詩人といかに出会ったかが書かれている。

    まず目次を見て、この人も詩人?と気になった章から読み始めてみた。「第12章 鶴見俊輔 この世界を生き延びるための言葉」。東日本大震災のあと、平川さんが当時ラジオパーソナリティをしていたというエピソードから始まる。

    震災直後、ただ呆然と「これから日本はどうなってしまうのか」と途方に暮れていた日本が戦後の焼け跡となった日本と重なり、終戦直後の日本をリアルに知る人として鶴見俊輔さんを番組のゲストに呼ぶ企画を立てたという。企画自体は実現しなかったとのことだが、そんな流れで紹介されている鶴見俊輔さんの言葉がとても響く。

    わたしの好きなことばに、レッドフィールドの「期待の次元と回顧の次元」というのがあるんです。いま生きている人は、こうなるだろう、こうすればああなるだろうと、いろいろな期待をもって歴史を生きてゆくわけですね。ある時点まで来て、こんどふり返るときは、もう決まっているものを見るわけだから、すじが見えてしまう。これが、回願の次元ですね。

    「敗戦体験』から遺すもの」より抜粋/『昭和を語る鶴見俊輔座談』所収

    平川さんはそれに続けてこう書いている。

    指導者たちが戦争を起こしたときに立っていたのは期待の次元です。一方、過去のことを現在の地点から見てあれこれ評論するのが回顧の次元だということです。

    明日がどうなるのか、よくわからない現実の中で考え、判断していたことを、その次元に立ち戻ることなくリアルに見ることはできない。だから、批評家や分析家はこのふたつの次元を混同せずに、ことが起こったときに自分が生きていた期待の次元にもう一度立ち返って過去と今を見ることが必要だと鶴見さんは説いたのでした。そうしなければ、自分たちがどの時点で、どうして選択を誤ったのかを反省することはできない。そして、本当の反省のないところに、新たな道を模索することは難しいということです。

    なるほど、私たちは常に期待の次元を生きています。それが、私たちの「現在」です。そして、過去の過失や誤りを振り返ることが必要になったとき、その過去の地点において自分が立っていた次元に立ち戻ることが必要だと鶴見さんは説いています。回顧ではなく、期待の次元に立ち戻る。それは一体どういうことを意味しているのでしょうか。

    なんだか先が見通しにくい今、過去を振り返って昔はこうだったと「回顧の次元」で語る前にそのときの「期待の次元」に立ち戻ること。たしかに忘れがちな視点だ。(手前味噌ながら昨日書いた311メモリーズも、まさにそのときの「期待の次元」が蘇るようなことを考えていた。)

    さて、そんな鶴見さんの書いた詩もとても興味深いが、、それはまたどこかで書くことにしよう。

  • 311メモリーズ

    今日は東日本大震災から13年である。

    2012年に国立情報学研究所の北本朝展先生と一緒に作った震災ニュースアーカイブ「311メモリーズ」のことを、震災から5年目の3月11日に書いた記事を再編集しつつ改めて書きとめておこうと思う。(Flashで作っていたので残念ながら311メモリーズ自体は見ることができなくなってしまったが、データベース自体は今でも更新されていて、どこかで機会があれば作り直したい。。)

    「311メモリーズ」は、東日本大震災に関連してマスメディアが報じたニュース記事を対象に、重要なキーワードを日ごとに10個、アルゴリズムで自動的に選び出して表示する「年表」である。

    震災直後にさかのぼれば、「大地震」「計画停電」「海水注入」「メルトダウン」など、キーワードとニュースの見出しから当時の感覚が蘇り、例えば「震災」や「復興」というキーワードを選ぶと、震災の直後をピークにニュースは徐々に減っていきながら毎年3/11付近で震災を振り返るニュースが多く報道されていることがわかったりもする。

    この年表の元となる情報は、北本先生の東日本大震災ニュース分析でも提供されているが、こうしたアーカイブから情報を得るには自らキーワードを入れて検索するという能動的な行動が必要になる。「311メモリーズ」では、静かに流れる年表に大量に並んだニュースキーワードを眺めることで震災の記憶に没入しながら、また時折ランダムに選ばれるキーワードとの偶然の出会いもきっかけとなって、あの日以降に起きたさまざまな出来事が頭の中によみがえってくる。

    音楽は松井敬治さん。当時、松井さんのスタジオの一部を間借りしていて、今でもいくつもの仕事でご一緒させていただいている。震災の直後に作られ、演奏された曲。今でもこの曲を聴くとあの時の空気が蘇ってくる気がする。当時の松井さんのブログからメッセージを紹介したい。

    あれから、1年と半年が過ぎました。長い春と夏、そして秋冬を越し、2012年を迎え、そしてまた夏が終わろうとしています。

    東京に暮らしている僕にとってさえ、あの日を境にして、僕から見える世界は、全く様相を変えました。あの頃の記憶をたぐるには、一日一日が、重く長く、どの出来事がどの日だったのかは、混沌としています。このサイトを眺めることで、その中の、いくつかがまた繋がることもあります。また、僕の内側から見ていたあの時の日本とは別に、外の世界、ニュースとなった出来事が並列に流れ今知る事も多くあります。そのひとつひとつの出来事にもそれぞれに、人生があり、そして今も、それぞれの今が、現れては消えてゆく。まさしく諸行無常を、このサイトは表現しているかのようでもあります。

    話はそれますが、記憶というものは、すこしずつどこかへ消えてしまいますが、自分の意思とは別にどこかの隅っこ隠れていて、ある日ひょっこりと出て来ることがあります。言葉に出来なくとも、その肌触りや、匂い、なんとも言えない感覚が蘇ることがあります。文字にすることの出来る記憶は数少なくなるけれど、そういう感覚のような記憶は体に染み入っているのかもしれません。他界した友人や親類を思う時、そういう感覚を、心の中に生きていている、と表現するのかもしれないですね。

    最後に、この曲について。3.11の直後に、ピアノに向かい、ただ心に浮かぶ音をピアノに写し取ったものです。メモのつもりでしたので、録音もマイクを適当に立てただけ。演奏も、なんとなく頼りなげで、危うい。ですが、その後、練習して弾き直してみたのですが、あの空気を再び録ることは出来ませんでした。僕が、あの瞬間に何を思っていたかは、もう思い出せませんが、あの春の桜を思い出します。これがあの時の自分の真実のように感じます。

    今も悲しみの中にいる人のことを思う時、その悲しみは時間が経てども、決して癒えることのないものだと思いますが、少しづつでも、安らぎが広がり悲しみを包むことを、ただ、祈るばかりです。

    震災直後の感覚。その1年半後の感覚。こうしたメッセージを読み返すこともその時々の感覚を思い出すきっかけになる。

    そして何より今年は能登半島地震。まだまだ復旧も復興もこれから。東日本大震災とはまた違う大変な状況。改めていまできることを少しずつやりながら、こうした記憶を残していくこともいずれ出来たらと思う。

  • 大雪と沸騰する地球

    風の新年会でお会いした柿次郎さん率いるHuuuuさんが取材されたこの記事を改めてメモ。

    スーパーエルニーニョと暖冬は「異常気象の時代」への入り口? 地球沸騰化がもたらす地球の未来

    地球はいま沸騰している。
    四季が二季になった。
    豪雪の原因は海面水温の高さ。
    いま全地球の海の中で最も海水温が高いのが日本。
    振り子が振り切れて後戻りできなくなる「ティッピングポイント」が近い。

    そもそもエルニーニョ現象とは、太平洋の東側の海水温が平年よりも高く、逆に太平洋の西側の海水温が下がる現象のこと。スーパーエルニーニョ現象は、この東側と西側の水温差が極端になることだが、まだこれは周期的に起こる現象で予測可能だという。

    では、今年のエルニーニョはなぜ「ジャイアントスーパー」なんでしょうか?

    通常の「スーパーエルニーニョ」と何が違うか。ペルー沖の水温も高いのですが、いつもは低いはずの太平洋西側の海水温も高いのです。地球温暖化で地球全体の水温が異常に高い中で、スーパーエルニーニョ現象が起こっているのです。

    海水温の平年との差がわかる図を見ると、低いはずの西側すらも海水温が高い。「地球の全てが真っ赤でほんの一部しか青いところしかない。僕はこんな地球を初めて見ました。」と立花教授は言う。

    本来はエルニーニョ現象が発生するとき、日本の夏は冷夏になるといわれていたんです。それが、今年は猛暑でしたよね?つまり、今までの気象の理屈が成り立たない時代に来た。こんな状況は我々研究者も初めて経験する状況です。

    さらに、今年は暖流である黒潮の流れが不安定で太平洋側に流れていかず東北から北海道の方まで流れていて、全地球の海の中で平年に比べて最も海水温が高いのが日本だという。

    これから影響がありそうなのが「豪雪」です。実は「豪雪」が起こる大きな原因は、海面水温の高さからです。

    冬にお風呂のドアを開けると、湯気がたくさん出てきますよね? あれは脱衣所が寒くて、お風呂が暖かいからその温度差でたくさん湯気が出るんです。だから日本海上にもたくさん水蒸気が出て、雪雲ができる。

    2月頭にこの記事を読んだ時は、住んでいる御代田はほとんど雪が降っていなくてそこだけは実感と違うと思っていたが、その後1ヶ月あまり、少なくとも移住して以来一番雪が降っていて、3月に入ってもまだ雪が積もる日が続いている。夜に降った雪が暖かい昼間に一気に溶けて目まぐるしく景色が変わったり、雨が降りながら凍っていきすべてを氷で包んでしまう「雨氷」という現象も、美しいがどこか恐ろしい。

    改めて、すごく大事なことがシリアスになり過ぎない絶妙な温度感で書かれていてとてもよい記事だ。恐怖を煽り過ぎてないからこそ怖い。いまここの、この実感とともに書き留めておく。

  • AIの能力を測るものさし

    相変わらずAI関連のニュースには事欠かない日々だが、今週はOpenAIのライバルAnthropicからGPT-4以上の性能を謳う新しいAIモデル「Claude 3」が発表されて話題になっている。

    何はともあれ、少し試してみることにする。特徴の一つはコンテクストに含められる文字数が20万トークン(日本語の場合は概ね20万字相当)と、本1冊分の文章を読み込めるので、以前noteでも試したように拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』の本文約10万字のテキストファイルを読み込ませて要約してもらった。

    この本は、イヴァン・イリイチが提唱した「コンヴィヴィアリティ」という概念をもとに、これからのテクノロジーのあるべき姿を探っています。

    主なポイントは以下の通りです。

    1. テクノロジーには人間の能力を高める第一の分水嶺と、逆に人間から能力を奪う第二の分水嶺があり、その間のバランスを保つことが重要。
    2. 情報テクノロジーの発展により、テクノロジーは物理的な力だけでなく、知的な力も持つようになり、人間との関わりはより複雑になっている。
    3. テクノロジーと人間の関わりを考えるうえで、デザインの役割が注目されている。デザインは人間を動かす力を持つが、その力の行使には倫理的な配慮が必要。
    4. 人新世とも言われる現代において、人間は自然に影響を与え、また自然から影響を受ける存在となっている。自然との共生のためのテクノロジーが求められている。
    5. 人間はお互いにわかりあえない存在だが、言葉を通じてコミュニケーションを図り、「自由の相互承認」の対象である「わたしたち」の範囲を広げていくことが求められている。
    6. 未来のテクノロジーは、人間が自ら使い、つくり、時に頼り、時に手放せる「道具」であるべきであり、人間が自然や他者と共に生きるための「コンヴィヴィアル・テクノロジー」であるべき。

    本書は、テクノロジーと人間、自然、社会の関わりについて多角的に考察し、これからのテクノロジーの可能性と課題を示唆しています。

    なかなかやるなあ。本全体の内容が網羅的によくまとめられていて、大学のレポート課題としてこれを提出されたら、ちゃんと全部読んでくれたなあと思うだろう。

    では、GPT-4だとどうなるか。ChatGPTのインターフェイスで、同じように本文全文のテキストファイルをアップロードして要約してもらった。

    この本『コンヴィヴィアル・テクノロジー』は、イヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティ(共に生きる)」という概念に基づき、現代社会における人間とテクノロジーの関係を探求しています。イリイチは、技術や制度に人間が隷従する現状を批判し、未来のテクノロジーは人間の本質や自由を尊重し、他者や自然との関係性の中で共に生きるためのものであるべきだと提唱しています。この本では、イリイチの理念を現代に適用し、持続可能な発展と人間性の回復に向けて、どのようなテクノロジーが求められるかを考察しています。また、自転車を例に挙げながら、人間とテクノロジーが共に成長し、相互に影響しあう共進化の過程についても論じています。

    一見悪くないが、著者の立場から見ると、この人はイリイチは読んでいるけど、自分の本は斜め読みか、もしかして読んでくれてないかなという印象がある。

    しかし、これには理由がある。現状のChatGPT 4のウェブインターフェイスでは、コンテクストに含められるトークン数が約3万2千トークンと本全体を読み込むことができない。そこでRAGと呼ばれる仕組みが内部的には使われる。全部いっぺんに読めないので要約に必要そうな箇所を抽出しながら要約するようなアプローチである。(詳しくは以前書いたnoteを参照。)

    実は最新のGPT-4 Turboは12万8千トークン対応になっているが、いまのところAPI経由でしか使えないので、次にコードを書いてGPT-4 TurboのAPIを使って要約してもらった。

    この長文における主な要約としては、以下のポイントを挙げることができます:

    1. コンヴィヴィアル・テクノロジーの必要性: イヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティ」の概念に沿って、テクノロジーが人間と自然、そして他者と「共に生きる」ための道具であるべきであり、過剰な依存や隷属を生まず、個々の自立性と創造性を高めるものでなければならない。
    2. 二つの分水嶺: すべての道具には、人間の能力を向上させる第一の分水嶺と、能力や主体性を奪う第二の分水嶺が存在する。適切なバランスを見つけることがコンヴィヴィアルなテクノロジーへの鍵である。
    3. テクノロジーの対象拡張: 現代のテクノロジーはただの道具だけでなく、自律性を持ち始め他者としての性質も帯びつつある。人間との関係、自然や社会との相互作用の中でテクノロジーをどう位置づけるかが重要なテーマとなっている。
    4. サステナビリティとダイバーシティ: 人間と自然、社会との健全な関係を維持することはテクノロジーにおいても重視されるべきテーマである。すべての生命と共存する持続可能な方法でテクノロジーを発展させる必要がある。
    5. テクノロジーの自律性と他律性のバランス: 自律的なテクノロジーの発展は人間に多大な便益をもたらすが、その使用は個人や社会の自律性を損なわない形であるべきであり、必要に応じて手放せる、変更できる柔軟性を持つべきである。
    6. 言葉とコミュニケーションの重要性: 寛容、責任、信頼といった価値を新たな文脈で再考し、テクノロジーを通じた人間関係や社会関係の構築において重要な方針を提供する。

    この文章が示唆しているのは、テクノロジーそのものや、テクノロジーを取り巻く環境、人々のテクノロジーに対する認識や態度が、持続可能で包摂的な未来づくりへ向けて重要な役割を果たすということです。テクノロジーは、人間と共にある環境内での共生を促進し、様々な生命とともに調和ある共存を目指すための手段として、賢く、思慮深く利用されるべきことを強調しています。

    取り上げているポイントが多少違うが、今度はかなり網羅的な要約になっている。若干書いた意図が伝わっていないかなと思うところはあるものの、そこはむしろ書き手としての技量不足かなという感じで、課題でこれを提出してくれたらまずちゃんと読んでくれたことは疑わないだろう。

    そういう意味では、現時点ではそれぞれのAIモデルの良し悪しというよりも、コンテクストに含められるトークン数の違いのほうが影響が大きい印象である。(ちなみにGoogleのGemini Pro 1.5も100万トークンを謳っているが、まだアクセスできていないので試せていない。)

    さて、そんな比較をしながらふと我に帰ると、そもそもGPT-4の登場からたった1年足らずで、AIとの対話にほとんど不自然さを感じないことに慣れてしまったことの方に驚く。こうなってくると、AIの能力は知能テストのようなスコアで測れるものさしだけでなく、例えば同じ内容を伝えるとしてもちょっとしたニュアンスやスタイルの違いや、役回りをどれくらい幅広く使い分けられるか、どれくらい自分の発言に対してメタ認知できているかなど、もはやコミュニケーション能力や人間力を測るようなものになっていくのだろう。

    AIの能力をどうやって測るかはなかなか難しい問題である。

  • 信じる方が強い

    息子とゲームの話をしていると、こちらが学びになることが多い。

    先日も最近のゲームの話をしていたら息子曰く、マルチプレイのオンラインゲームをしていると、他のプレイヤーが味方か敵かわからないようなとき、向こうが友好的に振る舞ってくるから近づいていくと急に裏切って攻撃してくるプレイヤーがいるらしい。でもそんなことがあっても「裏切られることは常に考えに入れながらそれでも信じようとした方が強い」と言っていてなかなか深いなあと思った。

    自分から裏切らないことが(倫理的に)正しいとかでもなく、盲目的に相手を信じるわけでもなく、常に警戒はしながらトータルで考えたら信じる方が強いという、経験に基づくリアリズムがそこにはある。まさにゲーム理論をゲームで学んでいるというか。

    あれ、ところでゲーム理論ってそういうことだったっけ。ということでChatGPTに聞いてみた。

    この文章には、ゲーム理論の概念を日常生活の一部として適用している面白い例が示されています。息子さんの言葉には、ゲーム理論の基本原則である「信頼と裏切り」のダイナミクスが反映されています。これは、「囚人のジレンマ」などでよく見られる状況と類似しています。ただし、文中で「裏切られることは常に考えに入れながらそれでも信じようとした方が強い」という部分は、ゲーム理論の一般的な解釈とは異なります。ゲーム理論では、相手の行動に基づいて最適な戦略を選択することが強調されますが、息子さんのアプローチは、繰り返し遭遇する相手に対して信頼を築くことの重要性を示しているようです。

    息子さんの考え方は、長期的な視点での相互作用を重視する「反復ゲーム」の概念に近いかもしれません。反復ゲームでは、プレイヤーは何度も相互作用し、それぞれの行動が将来の行動に影響を与えるため、単一のゲームよりも信頼や協力の構築が重要になります。息子さんが言及しているのは、このような環境での信頼の構築と、裏切りを予期しつつも信頼関係を維持しようとする戦略の価値かもしれません。

    なるほど。まあでも息子が何のゲームについて話してるのか、どんなルールのゲームかもう少し聞いてみないとわからないな。同じ相手との反復ゲームというわけではないようだし、何をもって「強い」と言ってたのかも改めてまた聞いてみよう。

  • データとデザイン

    現実世界の現象や事象はどこから「データ」になるのだろう。例えば「大気の状態」という自然現象が「天気予報」のデータになるときを考えてみる。気圧センサーなら内部の素子が大気圧の変化でわずかにひずみ、それが電気抵抗値の変化として検出される。大気圧の変化という自然現象が抵抗値という数値に変換されるわけだ。この抵抗値もデータだがその数値自体には意味がないので、この抵抗値(Ω)が計算式によって大気圧の値(hPa)に変換される。この大気圧の値もデータだが、「天気予報」が知りたい人にとってはまだ意味や価値のあるデータとは言えない。過去の値や、周囲の値、温度湿度など他の値を組み合わせ、それらを膨大な過去のデータと照らし合わせたりすることでようやく天気予報と呼べそうなデータになる。

    それでもまだ、それを数字が並んだエクセルシートで見せられても困る。天気を分類してアイコンにしたり、地図上に配置したりすることでようやく見慣れた天気予報になるのだ。データは人がわかるかたちになってはじめて意味や価値があるのである。

    データをつくる側にも人がいる。例えば天気という自然現象をデータにする方法はセンサーに限らない。人工衛星を飛ばして宇宙から見たり、あるいはスマホのカメラで撮った空の写真を集めたり、そこには何かをデータにするための仕組みをつくる人がいるのだ。また、天気予報なら自然が相手だが、人の行動や心理や健康状態を扱おうと思えば、人の存在はより無視できない大きな要素となる。

    先日発売された、Takramの櫻井による初の単著『データとデザイン 人とデータのつなぎかた』は、タイトルにある通り、まさにそうした人とデータの関係をデザインするための本である。

    第1部「データのためのデザイン」は、どちらかといえばエンジニアに向けた内容と言えるだろう。上にも書いたように、データは集めればよいわけではなく、それをつくる人や使う人とつながることではじめて意味や価値が生まれる。そしてそのためにデザインの視点や手法が力になるのである。

    第2部「デザインのためのデータ」は、それに対してデザイナーに向けた内容と言えるだろう。デザインにとってもデータは重要なのだ。よりよいデザインのためにユーザーテストを行うこともデータの活用だし、たとえ自分の直感で判断しているとしても実はそこには経験という暗黙のデータがあるとも言える。また、インフォグラフィックやアプリのUIデザインなど、デザイナーがデータそのものをデザインする場面もあるだろう。

    そうしたデータと人の視点を行き来しながら進めていくデザインプロセスを本書では「データデザイン」と位置付けている。(ここでも振り子のメタファーが登場する)。もちろんエンジニアやデザイナーに限らず、あらゆる分野で、データを活用したいあるいはデータを扱わなければならなくなったという方にも有益な内容だ。

    ちなみに本書は、彼が数年前から温めていた本の企画を、拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』でお世話になったBNNの村田さんにご相談して、そこからTakramの編集者矢野さん、『統計学が最強の学問である』で知られる統計家の西内啓さんなどにも並走してもらいながら、丁寧に議論を重ねてまとめられた一冊である。そのプロセスを、自分も紆余曲折しながら執筆していた頃を思い出しながら横で見守っていたこともあり、ぜひ多くの人に手に取ってもらえたら幸いである。

  • 具体と抽象のあいだを観察する

    この日は伊藤亜紗さんのワークショップを見学。TakramではMark@という、それぞれのメンバーがもつ多様な専門分野を探求する自主的なグループ活動の仕組みがあり、この一つとしてU30のデザイナーを対象としたデザインコミュニティを運営するPark@という取り組みがある。第2期の今期のテーマは「観察」で、ちょうど今はゲストを招いたレクチャーとワークショップが行われている。

    亜紗さんのレクチャーワークショップのタイトルは「抽象と具体のあいだを観察する」。観察というと、朝顔の観察みたいに「具体」を観察するというイメージがあるが、観察という行為が「抽象と具体のあいだ」にあるという視点が面白い。

    まずは亜紗さんの専門領域である美学について。

    美学は哲学の兄弟。

    哲学は問いも言語、答えも言語。

    美学はすべてが言語にできるわけではないという問題意識がある。

    言葉にしにくいもの=感性や感覚、身体に関心がある。わからないけどわからないなりに考えたい。

    ここから本題の「観察」へ。まず牧野富太郎の植物画を見ながら参加者に問いが投げかけられる。

    この植物画からわかる「観察」の定義は?

    具体を表すこと?要素の分解?書き残すこと?などの答えが挙がるが、「これなんかへんじゃない?」とさらに投げかける亜紗さん。とても精緻に描き込まれた植物画を見ながら、自分が振られたら何て答えるかなあ、ずるいけど「いや、へんじゃない!」って答えはどうかなあ、、などと考えていたら、亜紗さんがこの絵を見た時に感じた違和感は「リアルすぎてリアリティがない」というものだったそう。(へんじゃないのがへん!)

    確かに図鑑に載る植物画は精緻だが、虫に喰われていたり、葉や花びらが欠けたりしていなくて、言われてみると完璧すぎる。つまりこの絵は、ある特定の種の植物の観察から見出された、抽象化された特徴が描かれたものなのだ。

    ここで、ロレイン・ダストンの『客観性』が紹介される。科学の代名詞のような、主観を排除した「客観性」という概念は実は19世紀頃に成立したものだという話。

    ちなみにこの本の訳者の岡澤康浩さんは解説でこれを「客観性ショック」と表現していて面白い。

    本書は、19世紀半ばに生じた「客観性ショック」と呼ぶべき一大事件を取り上げ、その衝撃を認識と視覚の歴史の中に位置づけ直す。本書が明らかにするところによれば、19 世紀になって主観性の排除として理解されるようになった「客観性」は、科学活動や科学の組織化を制御する理念として急速に受け入れられ、この新たな理念に導かれて科学的実践、科学的視覚、そして科学的主体さえもがラディカルに再編されていった。

    客観性の歴史とは、同時にその裏返しである主観性の歴史なのであり、(中略)客観性が科学を特徴づけるものとなるのに並行し、主観性は芸術を特徴づけるものとなっていく。そして、主観性が客観性に反するものとされるように、芸術もまた科学に反するものとして自らを定義し、そのあり方を再編成していく。

    Tokyo Academic Review of Booksというジャーナルにはより詳しい解説もある。

    さて、こうして主観と客観、具体と抽象の固定概念が揺らいだところで3つのワークに入る。

    最初のワークではたった2個の具体から抽象化はできることを体験する。お風呂とふとん=どちらも顔半分まで入るのが好き、とか。ねずっちのなぞかけも抽象化なんだな。(笑)

    何を拾い何を捨てるか。抽象は捨象とセットである。

    次のワークはわかりにくい抽象概念を身近なもので具体化する。身の回りのもので「ルネサンスっぽいもの」「バロックっぽいもの」をさがしてみる。ベンチとヨギボー?教室と校庭?整ったルネサンスと動きのあるバロック、みたいな特徴が見えてくる。抽象を具体にすると使えるものになる。

    最後のワークはメタファーの更新。

    レイコフの「Metaphors We Live By」が紹介される。コロナ禍を「戦争」と表現するか、パオロ・ジョルダーノのように「引越し」と表現するか。会議や議論もしばしば戦争のメタファーで語られるがそうではない新しいメタファーを考えるワーク。

    メタファーは飾りじゃない。世界や自分が置かれた状況を理解する枠組みであり、混乱した状況や捉え難い状況、危機的な時間から距離をとり、生き抜くための杖になる。

    最後のまとめ。

    抽象と具体のあいだを観察することで…

    1. 近すぎるもの(具体)を違う角度で眺める
    2. アクセスしにくいもの(抽象)を動かす
    3. 捨てているもの(捨象)を拾う

    非常に勉強になり面白かった。そして参加者に対する亜紗さんの傾聴する力と言葉の引き出し方がとても印象的なワークショップだった。