ひとが詩人になるとき

工学系のバックグラウンドで人文系な仕事をしている人に惹かれる。内沼さんの本チャンネルで知った『ひとが詩人になるとき』の著者の平川克美さんもその一人。

機械工学科のご出身で、起業家としても様々なビジネスを手掛け、オープンソース界隈ではリナックスカフェを作った方としても知られる。50歳を過ぎてから文筆家として『反戦略的ビジネスのすすめ』など独自のビジネス論を多数書かれてきたが、最近は「初めて、自由に、思う存分書かせてもらえるフィールドで、自分が書いてみたいことを書いた作品」だという「言葉が鍛えられる場所」という文芸エッセイシリーズを書かれていて、本書はその第3弾である。

普段、詩どころか文芸というジャンルの本をあまり読まないのだが、そんな経歴の平川さんが書かれる(ビジネス論とは一番縁遠そうな)「詩とは何か?なぜ人は詩を書くのか?」という問いに興味をもった。平川さんが人生で影響を受けてきた詩人が、詩といかに出会ったか、そして平川さんがそうした詩人といかに出会ったかが書かれている。

まず目次を見て、この人も詩人?と気になった章から読み始めてみた。「第12章 鶴見俊輔 この世界を生き延びるための言葉」。東日本大震災のあと、平川さんが当時ラジオパーソナリティをしていたというエピソードから始まる。

震災直後、ただ呆然と「これから日本はどうなってしまうのか」と途方に暮れていた日本が戦後の焼け跡となった日本と重なり、終戦直後の日本をリアルに知る人として鶴見俊輔さんを番組のゲストに呼ぶ企画を立てたという。企画自体は実現しなかったとのことだが、そんな流れで紹介されている鶴見俊輔さんの言葉がとても響く。

わたしの好きなことばに、レッドフィールドの「期待の次元と回顧の次元」というのがあるんです。いま生きている人は、こうなるだろう、こうすればああなるだろうと、いろいろな期待をもって歴史を生きてゆくわけですね。ある時点まで来て、こんどふり返るときは、もう決まっているものを見るわけだから、すじが見えてしまう。これが、回願の次元ですね。

「敗戦体験』から遺すもの」より抜粋/『昭和を語る鶴見俊輔座談』所収

平川さんはそれに続けてこう書いている。

指導者たちが戦争を起こしたときに立っていたのは期待の次元です。一方、過去のことを現在の地点から見てあれこれ評論するのが回顧の次元だということです。

明日がどうなるのか、よくわからない現実の中で考え、判断していたことを、その次元に立ち戻ることなくリアルに見ることはできない。だから、批評家や分析家はこのふたつの次元を混同せずに、ことが起こったときに自分が生きていた期待の次元にもう一度立ち返って過去と今を見ることが必要だと鶴見さんは説いたのでした。そうしなければ、自分たちがどの時点で、どうして選択を誤ったのかを反省することはできない。そして、本当の反省のないところに、新たな道を模索することは難しいということです。

なるほど、私たちは常に期待の次元を生きています。それが、私たちの「現在」です。そして、過去の過失や誤りを振り返ることが必要になったとき、その過去の地点において自分が立っていた次元に立ち戻ることが必要だと鶴見さんは説いています。回顧ではなく、期待の次元に立ち戻る。それは一体どういうことを意味しているのでしょうか。

なんだか先が見通しにくい今、過去を振り返って昔はこうだったと「回顧の次元」で語る前にそのときの「期待の次元」に立ち戻ること。たしかに忘れがちな視点だ。(手前味噌ながら昨日書いた311メモリーズも、まさにそのときの「期待の次元」が蘇るようなことを考えていた。)

さて、そんな鶴見さんの書いた詩もとても興味深いが、、それはまたどこかで書くことにしよう。