共に生きるための

昨夜は東京丸の内で大手金融機関の方々を中心にした勉強会に呼ばれてお話しした。本を書いて3年経ってもこうして本をテーマにトークイベントなどに読んでいただくのは嬉しい。

昨日は、デザイン業界以外の方も多かったので、Takramの紹介、デザインとは?イノベーションとは?といった話から始めて、『コンヴィヴィアル・テクノロジー』の話を、プロローグの一番最初に書いている「何のためのイノベーション?」という問いから始めた。

 そして同時に、これからの時代には、そもそも何のためにイノベーションが必要なのかという視点も欠かせない。いまや、ビジネスマンはビジネスを成立させる力を儲かることだけに使っていればいい時代ではないし、エンジニアはテクノロジーの力を使って何でも実現させていい時代ではないし、デザイナーやクリエイターは人の気持ちや行動を変えることができるクリエイティビティの力を無自覚に使っていい時代ではないのである。

(『コンヴィヴィアル・テクノロジー』プロローグ より)

その上で、自立共生などと訳されるコンヴィヴィアリティという概念が、イリイチが「コンヴィヴィアリティのための道具」を書いてから50年のテクノロジーの変化を踏まえてなお重要であること。人間と人間、人間と自然だけでなく、人間とテクノロジーがいかに共に生きるかという視点。そのときに必要なデザインの視点。といった話をした。

質疑の中で、最初の問い(何のためのイノベーション?)の答えは?という質問があった。この問いはあくまで本の出発点ではあるが、一言で答えるとすれば(イノベーションに限らず)「何のための」を突き詰めていくと、結局「共に生きる」ため、「共に生きる」には?というところに行き着くのではと思う。

ただ「共に生きる」という言葉だけ聞くと、ちょっと宗教っぽいとか、理想主義的という誤解もあるかもしれないが、どちらかというと「共に生きざるを得ない」という感覚に近い。

コンヴィヴィアリティとは「共に生きる」ことである。情報テクノロジーや気候危機やパンデミックなど、いずれにしてもお互いの自由がグローバルに複雑に干渉し合う時代において、言ってみれば「共に生きざるを得ない」状況の中で、自由の相互承認の対象としての「わたしたち(We)」はどこまで拡張できるだろうか。

(『コンヴィヴィアル・テクノロジー』第6章 人間と人間 より)

最近「生きのびるためのデザイン」という名著の新版が発売されて山崎亮さんの解説が素晴らしいのでそれについても書きたいが、言ってみれば「共に生きのびるためのデザイン」「共に生きのびるためのテクノロジー」「共に生きのびるためのイノベーション」を考えたいのである。