大きな災害が起こって、いつものルールや答えが適用できない状態に陥った時、人はそれぞれの考えや判断で行動をするしかなくなる。そこではいろんなことが起こる。状況も刻々と変わり、昨日必要だったことが今日はもう必要でなくなることもあるかもしれないし、その逆も。
熊本地震の時、直後に現地入りしたボランティア団体が寄付を呼びかけていたのだが、少し調べると過去の災害時に被災地でトラブルを起こしたことがある団体だという情報が入ってきて、それをシェアしていたとある方の投稿に注意喚起するようなレスをつけたことがある。
地元ということもあってよかれと思って書いたわけだが、実は直後にその方(その方も地元の大先輩で影響力もある方)からDMでお叱りを受けた。その投稿がどれだけの人の行動にブレーキをかけることになるかわかって書いてるかと。いつ起こるかわからない地震のような災害の時に、本当に直後に現地に入るって普通に考えたらまず難しいし、ちょっとでも慎重に後先考えてたらできないこと。それくらいの瞬発力のある団体だといろんな意味で慎重さを欠く言動はあるかもしれないが、そういう人の存在も必要なんじゃないかと。というか、そもそも過去にトラブルがあったというその情報は本当に確実な情報かと。
絶対の正解はないが、まずそうやって指摘をしてもらったことがありがたかった。だんだん歳を重ねるとそうやって叱ってくれる人ってどんどんいなくなる。自分も周りにそういうことをなかなかできないし、貴重な時間を割いてエネルギーを使って指摘していただいたことに恐縮しつつ、今でも本当に感謝していて、考えを改めさせられた経験としてよく思い出す。
今回の能登地震でも、無鉄砲に現地に向かうボランティアが批判されている。確かに今回は特にもともとアクセスのよくないエリアに広範に渡って被害があり渋滞が深刻な問題になってしまっているので、しばらくは個人で現地に向かうのは避けるべきかもしれないし、実際に現地に行って邪魔だったり迷惑なだけになってしまっている人もいるようだ。
でも地震が起きて直後から道路がそこまでの状況だと気づけたか。すぐに動き出した人を全部否定することはやはり出来ないかもしれないとも思う。もちろんSNSで現地に行くなと呼びかける人もいていいし、それに限らず、冷静に分析する人も、議論する人も、黙って寄付する人も、政治を批判する人も、それぞれがよかれと思ってそう行動しているのなら、その総体として起きていることは、全体として見れば今このタイミングでの「よかれの総体」はそういうことだと受け入れるしかないんじゃないかともどこかで思う。
ただしこれは何もしなくて現状のままでいいというのとは違う。自分のよかれと他人のよかれが食い違う時に、その衝突や摩擦にどう折り合いをつけるのか、他人のよかれを否定するのではなく(くどいがそういう人もいていい)少なくとも自分は、みんながそれぞれのよかれで行動した時に総体としてよい方向に向かうにはどうしたらいいんだろうということを考えていた。
いのちに関わる話だし、自分が当事者になったらまた違うことを思うかもしれないが、いまこのタイミングで考えてたことをここには残しておこうと思う。
誤解を恐れずに言えば、テロや戦争も、ある意味でそれぞれのよかれの衝突だと言えなくもない。唯一絶対的なよかれが存在するわけではない。それぞれがよかれと思って行動するその総体が、自分にとってよかれに向かうことを考えながら、結局は自分なりのよかれを行動に移していくのみである。
「よかれ」は「よくあれ」だから、元の言葉は「よくある」、つまりいわゆる「ウェルビーイング」にも繋がる話である。「よくある」ってなんだろう。