この日は、八重洲ミッドタウンで行われた「エッセンスフォーラム2024 – 研究知の社会実装に向けて – 」というイベントに参加した。
昨年に続く日本最大規模の研究者ビジネスカンファレンスとのことで、大学の研究者だけでなく、いわゆるディープテック系スタートアップや大企業の研究所の方なども多く参加されていたと思う。
ウェブを見ると、今回のテーマは「研究知の社会実装(Knowledge to Knowledge Capital)」で、「研究知との出会いが社会を前進させる重要なリソースになり得ることを改めて確認し、その可能性と課題を共に深めるためのテーマ」とあった。
基調講演ではMIT Media Lab石井裕先生の変わらぬパッション溢れるお話を聴き、その後のセッションでは、たまたま隣になった方と話したら自分の本を読んで頂いてたり、また別のセッションでは、よそよそしく話しながらなんかどこかで会ったことあるなと思ったら大学時代のクラスメイトだったり、偶然の出会いも面白かった。
さて、聴講したセッションの一つで、会場から「10年後にとんな社会になっていたらいいと思うか?」という質問があった。「好奇心駆動型社会」「脱地球社会」「氾生命社会」「当事者化社会」「自然社会」いろんな視点が挙げられてどれも興味深いものだったのだが、実は先日自分が登壇したイベントでも同じような質問をされて、答えに悩んでしまったのだが、たしかその時は「今より悪くならない社会」みたいな回答をした気がする。
個人的には、どちらかといえば(というかかなり)楽観的で、こうしたイベントも未来に対して前向きな気持ちで参加したいとは思うものの、この日は特に朝から、能登の豪雨被害の状況が次々と届いたり、中東ももう後戻りできなそうなところまでエスカレーションしていたり、目の前の現実に、本当にこれからも「社会は前進する」のだろうかと思ってしまった。
以前また別のイベントに登壇した日がちょうどロシアがウクライナに侵攻した日で、この日もイスラエルがヒズボラを空爆した日で、そんなニュースを気にしながら、今日が悪い意味での歴史の転換点にならないといいなと思いながら話を聞いていた。(ちなみに、こういうイベントでそうした話題に必ず触れるべきと言いたい訳ではない。が、自分が聞いた議論の中では、石井先生は、世界が分断に向かう中で「わたしたち(We)」という主語を安易に使うべきではないという趣旨の発言の中でウクライナやガザの話に触れていた。)
政治にせよ、経済にせよ、研究にせよ、何かの「正しさ」には「前提」がある。歴史を見ればそうした「前提」が覆り、「正しさ」が180度変わるようなことは何度も起きてきた。今もまたその「前提」が大きく変わろうとしている時である可能性を頭の片隅に置きながら、それでもあくまで出来るだけポジティブに楽観的に、誰もがよく生きられる未来になるようなことが少しでも出来たらと思う。