「サステナブル(持続可能な)」という言葉は、いまやあらゆるところで目にする言葉になったが、「Sustainable Development(持続可能な開発)」という用語が最初に使われ、SDGsの源流とも言われる1987年の「Our Common Future」というレポートによると、「サステナブル」とは、「将来の世代が彼らのニーズを満たす能力を損なうことなく、現在のニーズを満たす」こととされている。そこでフォーカスされているのは、「人間以外の存在」ではなく、あくまで「未来の人間」である。
人種や出生や能力にかかわらず、あらゆる人間が生きたいように生きる権利を認めようとするところまで辿り着いた近代の人間社会の根本原理が「自由の相互承認」であるなら、脱人間中心主義は「自由の相互承認」の種を超えた拡張であり、サステナビリティは「自由の相互承認」の時間軸を超えた拡張である。人間中心主義を改めることや、地球のために、と考えることは、倫理的には理解できてもなかなか日々の行動原理とするのはハードルが高い。それよりも、あくまで「すべての人間」という枠の中に「未来の人間」も含めようという考え方のほうが、まずは現実的で受け入れやすいのではないだろうか。
サステナブルとは、子どもたちやその先の孫たちの自由を奪わないこと。脱人間中心主義のように思考の枠を広げることと同時に、様々な議論や思想に振り回され過ぎず、素直に行動原理に取り入れられる基本的なことに改めて立ち返ってみることも大事なことだろう。
つまるところ、「人間と自然」について考えることは「人間と人間」について考えることにつながるのである。
(『コンヴィヴィアル・テクノロジー』第5章 人間と自然 より)
この話を最初にどこで目にしたか忘れてしまったけど、サステナブルと言われると自然を守ろうとか、環境を守ろうというイメージがあるから、はっとさせられたのは覚えている。そうか、サステナブルってあくまで「まだここにいない人」も「わたしたち(We)」に入れて考えましょうってことなんだなと。
ちょうど、同じIAMAS出身で、東京でIT起業などを経つつ今は岐阜で不動産業をやっている中原さんがFacebookで現実問題として地域社会での「未在の他者」との対話の難しさを語っていて確かにと思う。(ちなみに「未在の他者」という言葉は社会学者の大澤真幸さんの言葉らしい。)
まだここにいない人を誰がどういう根拠で代理できるのか。そもそも代理すべきなのか。人が代理しないとしたら、どんなファクト(データ)や予測(シミュレーション)が意思決定の根拠になりうるか。
いや、そもそもどちらかというと「まだここにいない」どころか「今ここにいる」人のあいだの「自由の相互承認」もままならなくなりつつあるような気も。。
(ちなみに「自由の相互承認」というのは教育学者の苫野一徳さんの本で知った言葉だが、、長くなりそうなのでまた今度書くことにしよう。)