最近、技術哲学と呼ばれる領域に関わる方々とお話しする機会が何度かあって、HACSというモデルに興味を持っている。
HACSとは「階層的自律コミュニケーション・システム」の略で、提唱された基礎情報学の西垣通さんの言葉を紹介しつつ詳細は省くが、共同体やコミュニケーションを「自律システムの階層構造」として考えようというのがその肝だと思う。
話を聞くにつれこれは面白いなと思っているものの、まだちゃんと理解出来ていないかもしれないし上手く伝えられる気もしないが、ひとまず自分なりの理解を書き留めておく。
まず、人間は自ら生きる自律システム(生き物)である。と同時に上位の自律システム(社会とか共同体とか)をつくる。
また、それぞれの自律システムは、何らかの価値観をもつ。
生き物(という自律システム)の価値観は生きることである。すなわち、生きられることが意味や価値である。
そして、上位の自律システムにも、それぞれの価値観がある。例えば、「法」というシステムなら合法か違法かに意味や価値があり、「科学」というシステムなら真か偽かに意味や価値があり、「経済」というシステムなら得か損かに意味や価値がある、とか。
もっと小さなシステム、例えばコミュニティやプロジェクトにも、いい/悪いとか成功/失敗とか、あいまいかも知れないが、それぞれの自律システムとしての何らかの価値観が自ずと生まれる。
そして、法のような一見揺らがなそうな価値観も、はじめから決まっていた訳ではなく、下位システムとしての人間があくまで自律的に関わりながら、徐々に出来ていったり変わっていったりしたものである。(日本人女性初の弁護士を描いた話題の朝ドラ「虎と翼」は、まさにそうしたことを気づかせてくれるドラマと言えるだろう。)
ここで大事なのは、上位システムの価値観が強固になると、つまり上位システムが自律的になればなるほど、実は下位システムは自律的でなくてもよくなる、というということ。むしろそうなるように上位の自律システムをつくるとも言えるので、ここには「他律的でいられるように自律的に関わる」みたいな矛盾がある。「人間は考えなくていいように考える」みたいな話にも近い。
例えば、法という上位システムが強固なものになると、下位システムとしての人間はただそれに従うようになり、そもそも法という上位システムが自律的につくられたことを忘れてしまう。そうなってしまうと、下位システムはもはや上位システムに従うAIやロボットでいいということになり、人間がAIと比べられてしまうような状況になる。
上位システムから見たら下位システムは他律的な存在だが、下位システムはあくまで自律的に上位システムに関わる。本来、人間という自律システムは、そのように両義的な関係にあるいろんな上位の自律システムを介して、他者と関わりながら生きているのであり、そうである限りAIと比べられる不安はないはずだ、ということになる。
いわゆる社会的な情報伝達というのは、上位の社会システムのなかでデータがやりとりされて意味内容が形式的に交換され、人間はそこであたかも他律的機械のような役割を果たすからこそ可能になるのだ。そこでの役割はAIとまったく同じである。だが肝心なのは、社会的観察のもとで共時的には他律的に振る舞う人間も、心の中ではあくまで自律的な意味形成をおこなっており、通時的・長期的には社会のメカニズムを変革できる、という点である。一方、非APSのAIは単なるメディアであり、そんなことはできない。
コンピューティング・パラダイムのもとで実行されるデジタル化では、AIと人間は区別されない。すると人間は機械部品化され、ハイデガーの懸念した「総かりたて体制(Gestell)」に組み込まれていく。基礎情報学はその地獄を避けるための知なのだ。
思想の言葉 “情報伝達”を革新する 西垣通(『思想』2023年5月号)より
確かに、関わって一番面白いのはまさに上位システムがつくられている過程という感じがする(たんぽぽの家とのArt for Well-beingプロジェクトもまさにその最たるものだ)。ただ、そうやって自律的に関わってできた上位システムを、上手くいったからといってただ他所に持っていくだけでは同じようには上手くいかないのも当然だ。そして、多くの人が他律的に受け身で関わることに慣れて自律的に関わろうとしないような状態の上位システムも多いとも思う。さてどうしたものか。
ただ一方で、どんなに強固で変わらなそうに思える上位システムも、根本的に生きている自律システムである人間が関わっている限り、いつでも変わる可能性があるとも思う。
最近見たいくつかの展示、例えばミッドタウンデザインハブの「PROGETTAZIONE (プロジェッタツィオーネ)」や、グッドデザイン丸の内の「山と木と東京」など、まさにたくさんの人が自律的に関わりながら上位の自律システムが生まれていくようなプロセスを興味深く見ながら、HACSの話を思い出して自律と他律の両義性をどうデザインすべきかを考えていた。
そして、拙著『コンヴィヴィアル・テクノロジー』で書いたことも、まさにそうした自律と共生のバランスの話でもある。
ちなみにHACSにおける自律システムとは、自分で自分をつくるオートポイエティックシステム(APS)なので、AIだろうとロボットだろうとテクノロジーは自律システムではなくあくまでメディアである、と考えるらしい。
HACSとコンヴィヴィアル・テクノロジーについてもそれだけでいろいろ書くことはありそうだが、とりあえずいったんこの辺りにしよう。